2009年6月30日火曜日

うなぎ上りで日本を抜いたからと言って自慢にならん、の巻き

ここタイで、三人目の死亡者が出たとなると安閑とはしていられなくなった。いわずと知れたインフルエンザが発症して命を落とした現地の人の数である。

感染者もうなぎ上りで、日本をすでに抜き去って、6月29日現在で1330人に達してしまった。10日過ぎで、確か二百人程度だったから加速度的に患者の数が激増した感じだ。

(感染症情報センター、2009年6月30日 12時 更新より)

大使館では、在留邦人に向けて緊急一斉メールを流しているらしい。内容は、現地のインフルエンザの感染状況、流行地域の紹介、感染予防対策の紹介等なんだが、とある人のブログでは、親切にもこまめにその情報を記事として取り上げていてくれて、参考になった。

それで、加速度的に感染が広がっていく状況をグラフにしてみた。これを見ると、たった一週間で倍近くに患者の数が増えているのが分かる。チェック体制が強化されて患者が急増したのかもしれないが、それでも増えすぎだ。感染が爆発的に広がる臨界点としての患者数を超えたような恐ろしさを感じる。

※バンコクポスト紙(6/30付け)

会社では、豚インフルエンザに注意を喚起する意図もあって、掲示板に予防を啓蒙する張り紙を出させてみた。ところが、総務課長は、ブタさんの可愛いイラストなんかを加えたりして、全然、緊迫感が漂ってこない。
まあ、これでも張り出さないよりは増しだろう。工場のある行政県では、すでに百名近くの患者を出している。近隣では、ランシットのような郊外型ショッピングセンターとか幾つか大学もあるから、人の往来は激しい場所だ。従業員も感染しないだろうかと、ちょっと気になってくる。

ところで、三人目で無くなった方は、徴兵で兵役についていた若い男性のようだ。所属していた部隊では、五百人近くが感染している可能性で、監視下に置かれているらしい。この男性は、すでに6月15日の時点で発熱していたにもかかわらず、病院での治療を拒んでいた経緯がある。地元の人は、病院へ行くとお金がかかるから、自分で薬を買って飲んで直してしまうケースも多い。完全に症状が出てから、病院へ担ぎ込まれても手遅れになるだけだ。現に、この男性も肺炎を併発してしまい回復できないまま世を去った。

やっぱり、感染拡大の臨界点を超えてしまったのではないだろうか?

こうなったら自己防衛しかないのだ。大使館から呼びかけていた、”手洗い、うがいを励行する”とか、”不要不急の外出を控えること、人混みを避けること、また、人混みにでる場合にはマスクを着用すること”などをやってみよう。

何だか予防一方の対応策で大丈夫なのかと思いつつも、やらないより増しと決意した貧乏社長なのでした。(この巻き、終わり)

2009年6月29日月曜日

バンコクポストで見る今日のタイ

貧乏社長は、毎日欠かさずに英字紙のバンコクポストに目を通すのが日課だ。

そこには、必ず一面トップを飾る話題性のある写真が掲載されている。印象的な写真は、携帯に付属しているカメラでパチッと写真に収めてきた。そう言った写真を、ここで紹介してみたいと思う。

★プミポン国王陛下が定期健康診断で病院を訪問(3月)
国王陛下は、今年の12月5日で82歳の誕生日をお迎えになる。昨年の暮れには、体調を崩されて、恒例の講話をお取り止めになった。当時、PDA民主派のスワンナプーム空港占拠で政治的混乱が続いて心労が重なったのではないかと、国民も心配した。最近は、体調も回復されたようなので、健やかにお暮らしいただけるだろう。

★夏休みも、一日二三百バーツのために働く子供達(4月)
バンコクの首都圏でも、一日の最低賃金は一人当たり210バーツ(600円)にしかならない。だから、一日一日を食うや食わずで暮らしている家族も多いのが事実だ。そんな環境にある子供たちは、家族の家計を助けたり、新学期に必要な学用品を自分でまかなうガンバリ屋さんの子供達が多い。ただ、夏の日差しは容赦なく照らしつける。暑さで疲れてしまい居眠りをした瞬間を撮影されてしまったのかもしれない。(これは、三面でした。)

★時として襲うスコールは台風並み(6月3日)
実際に暴風雨がバンコク市内を襲ったのは二日で、この日は、夕方3時過ぎから5時近くまで、雷雨とともに工場付近が停電してしまい、仕事にならなかったのを覚えている。これだけ、派手に電信柱が倒されているのを見ると、どこかの送電機能が麻痺したのだと思う。

★騒ぎでつかまった父親の無実を訴える家族
この写真のキャプションによると、クロントーイ市場で揉め事があったらしく、それに巻き込まれてしまった父親が逮捕されたようだ。無実だと警官に訴える家族の必死な形相が、余りにリアルに撮られているのが印象的で、家族をかばおうとする周囲にも真剣さが見て取れる。

★伝統的な仮面舞踏で出迎えられる大蔵大臣(6月17日)
この舞踏劇は、タイカルチャーセンターで金曜日から月曜日の日程で演じられ、王室のバックアップが大きいらしい。日本の歌舞伎とは違う隈取(くまどり)が、模様も派手でこちらの風土に似つかわしく見える。

★お客欲しさに、象もパンダへ寝返り(6月26日)
チェンマイ動物園で生まれたばかりのパンダの赤ちゃんにあやかってお客さんの気を引こうと言うのだろう。意外にも、無害な水性塗料で体を白黒に塗り分けられても、象さんは気にしなかったようだ。タイでは、象は昔から神聖な動物であり、豊穣の象徴と考えられて来た。チットラダー宮殿でも、白象が王室によって大事に飼育されている。パンダ一家に二千万バーツの飼育舎を用意するより、象さんの保護はどうなんだと問いかけているようだ。

★ルーイ県ダンサイのピー・ター・コン(仮面祭り)
お化け(ピー、精霊)の仮面を被って街中を練り歩く奇祭と言っていいだろう。タイの人は、大人でもピーを恐れて夜中トイレに行くのを怖がったり、大学生が就職試験の前に寺に行って祈りをささげるのは良くあることだ。でも、こんなネアカなピーなら、余り怖い気はしない。

★なんでマイケルジャクソンがこんなに馬鹿デカク乗るんだよ?(6月28日)
やっぱり、世界の大スターだったからなのか?はたまた、その日のトップを飾る記事ネタが無かったのか?、こればっかりは貧乏社長も分かりません。因みに、水色の部分は、チャーリーズエンジェルで一世を風靡した。セクシー女優、ファラフォーセットメジャーズの訃報記事です。同じタイミングなので、ちょっと不利だったようです。

と言うことで、先月に続いて3日に一本の記事を何とか書き上げた貧乏社長なのでした。 (この巻き、終わり)

2009年6月28日日曜日

貧乏社長、ラオス潜入24時間ルポの巻き

何のことは無い、ラオスには一日しか滞在できなかったのである。

6月10日水曜日の午後から翌日の夕方まで、急ぎ足で通り抜けたような感じのするラオス出張だったのだが、仕事上の手応えは大きく感じて帰ってくることができた。

今、貧乏社長の会社では、世界戦略商品と言うのを世に送り出そうとしていている。円高は当面続くだろうと、親会社も見極めた。だから、生産拠点をタイに切り替えて、少しでもコスト競争力で優位に立とうとしたのだ。日本の主力工場にこだわり過ぎて、もう少し早くシフトすべきではなかったと言う声もあったが、致命的な出遅れでも無かろう。

数年前、親会社は同じ世界戦略の夢を、中国沿海部の工場で成し遂げようとした。この時は、単純に中国はコストが安いと言う鵜呑みの判断で出ている。結局、規模が比較的小さい量産製品は、品質の歩留まりもかえって上がらず、コストが高く付くと言う反省を残す結果となった。これには、理由がある。デザイン自体が、日本の工場と同じレベルで生産できる前提で始めてしまった。いきなり、品質管理の水準に余裕が無くなり、高い要求値を押し付け過ぎたのである。それに、現地の工場では塗装部門が無く、外注に頼ることになる。外注依存度が高くなると、中国は危険だ。時間が経てば、いとも容易く品質に手を抜いて悪びれず商品を納入してくるのが普通だからだ。

とにかく、高い授業料を払いすぎた感がある。

タイなら、ものづくりの精神を日系企業を通じて薫陶を受けたローカル企業も多い。品質管理とか商慣習とか、同じレベルで安心して話し合える。しかも、設計段階で現地化を最優先したので、こちらの品質・技術水準に配慮が十分行き渡ったし、価格帯もハイエンド機が日本製で、今回のミッド・ローレンジ商品をタイ製に任せる方針が採用された。つまり、マーケティングの棲み分けをハッキリさせて、グループ内の競合を交通整理したのである。

これで、商品が売れなかったら、当社は笑いものである。

貧乏社長は、自分達の担当する市場で販売をテコ入れしなければならなくなった。タイ国内市場は、販売代理店が営業してくれるから、受注の予測はまだ付きやすい。今、不安が残るとしたら、それはラオス国内なのだ。先行投資で自社メンテナンス網を立ち上げたばかりで、ここの実態が目に見えて来ない。

それで、出かけたのである。

そして、この目で見たラオスの庶民の生活水準。それは、意外に高いと感じた。アジアの最貧国と判別された、かつてのイメージが微塵にも無いのが分かったのである。お客さんの懐具合も暖かそうなのが分かったのだから、後は、毎度毎度で商売を進めていくのみである。

そんな分けで、駆け足で動き回ったラオスの一日を写真で紹介しておこうと思う。

★国境検問所
前に、老檛国...(シンプルなタイトルには分けありの巻き)の記事でアップしたビデオの最後でちょっとだけ出てくるのがこの建物。新車がやたらに多いので、生活が豊かになった証拠だろう。

★ラオス・シェル社のスタンド。
国境検問所を出て、ビエンチャン方向に走ると道路左側にある。立派な給油所で、オーナーのお嬢さんが、運営を仕切っている。シェル社は、国際石油資本なので、世界中どこへ行ってもデザインコンセプトが徹底されていて、日本の郊外スタンドとウソを付いても分からないくらいだ。

★首都ビエンチャンでも有名なメコン河畔に立つレストラン
バンコクの繁華街で見かける、ビアレディーのおねーちゃんと違って素人っぽさ一杯のラオス・ビール・レディー。素朴な感じが素敵でした。

★メコン河畔
メコン川の岸辺。川幅は、一キロぐらいはあると思う。これから、河口まで2千キロ以上あるというのだから、日本の河川とは桁外れな雄大さを感じる。

★コオロギのから揚げチェンマイはモグモグ昆虫食だったのだの巻きの記事でも紹介したが、写真撮影に失敗して実物を紹介できなかった。今回、ラオスで撮影したもの。味は、骨せんべいでも食べているようで悪くないが、実際の姿かたちを改めて写真で拝見すると怖気づく。

★ナマズの湯通し刺身
川魚なので、身に寄生虫がいるのは確実で生では食べない。湯がいたものに、わさびをつけて食べるが、醤油を希望するとナーンプラーのような漬け汁を出された。川魚の臭みが鼻に付くが、白身で美味しい。

★朝のビエンチャン市内バイクで通学・通勤する人が多い。

★インドチャイナ石油のスタンド
このスタンドは、大きい。ガソリン計量機が8台も設置されていてスケールが大きい。国内で47SSを所有する大会社である。

★シェル社のもう一つのスタンドこのスタンドは、上で紹介した給油所のオーナー自身が運営に当たっている。ラオスシェル社の系列は、70SSあると言っていた。

と言う分けで、今度はプライベートで、ラオスを改めてゆっくりと上さんと一緒に訪問してみたいと、思った貧乏社長なのでした。(この巻き、終わり)

おまけ:
コーンケーンのホテルでは、ドリアン持ち込み禁止の看板を見た。禁止は知っていたが、始めて見たので記念に一枚失敬した。

2009年6月27日土曜日

手動打鍵男、ランキング急躍進で秘技公開の巻き

今、貧乏社長はタイ・ブログランキングで109位まで成り上がった。

相撲なら、幕下上位まで駆け上がったというところだろう。十両、幕の内に当たる1ページ目80位に到達するには、まだまだ一所懸命で努力精進が必要なのだ。ただ、貧乏社長のブログは、過激で勝手に自分で炎上しまくっていると言われてしまったから、誰も本気で訪問してくれそうにない。そうとなれば、良心の呵責に耐えられそうなギリギリのあくどい秘策で進撃を図るしかない。

これには、ウエッブ・ブラウザーが作戦の重要な役割を担うのだ。

ルナスケープと言う国産のブラザーがある。過去の記事で使い出した経緯を紹介したのだが、このブラウザーは一つ開いておけば、その中で複数のウインドウを展開できるところに鍵がある。これは便利で、あっちこっちのウエッブページに自在に飛びながら、情報漁りをすることができる。タグもついているから、どんなウエッブを開いているのか一目で分かる。

今回は、この機能を使って秘技とすることにしよう。

論より証拠で、画面を見てもらえれば分かる。


先ずは、タイブログランキングのページを開いて、109位の貧乏社長のブログ名をクリックする。次に、ランキングのタグをクリックしてランキングに戻って、再度、おいらのブログ名をクリックする。この作業を繰り返していくと、メモリーの容量限界もあるんだが、おいらのパソコンでは30ページまで開くことができた。


後は、開いたおいらのブログの右側にある、ランキングアイコンをクリックして、ランキングのホームページへ戻る作業を繰り返す。全部のタグがランキングに切り替わったら、後はタグのペケXマークをクリックしながら、一つずつページを閉じていく。

この一連の作業で、六十クリックぐらいになるんじゃないだろうか。

これを繰り返せば、一日であたかも複数の人がかなり訪問したように錯覚されるのだ。でも、実際には読者は数人もいないだろう。上さん一人が読者であっても、貧乏社長は厭わない。なぜなら、このブログは私的な日記であって売文ではない。たまさか、ネットの中で通りすがりの人が読んでくれて、コメントを残してくれるのなら、それは望外の喜びと言うものである。

ただ、それでもランキングに参加した以上、下がるより上り調子の方が威勢があって、おいらの運気に一役買ってくれそうな気がする。だから、自己満足だろうが自己欺瞞だろうがクリックしまくるのだ。

そんな単純な動機で打鍵しまくりの貧乏社長ですが、こんなことをしている人がいたらご意見たまわりたいと思う、貧乏社長なのでありました。(この巻き、終わり)

2009年6月26日金曜日

おいらは、ランキング上昇、手動打鍵男なのだの巻き

最近、ブログのレイアウトをいじくってみた。

グーグルが主催しているブログ無料開設のサービスは、Bloggerと言って、Gメールのアドレスを持っている人なら誰でも開設できる。サービスが始まったのは、わずか十年前のことだが、利用者が爆発的に増えたのは、ここ四五年のことだと言う。

ブログのデザイン自体も、テンプレートから選ぶようになっている。手軽に始められるのが受けて、ブログの普及に一役買ったんだろう。昔のホームページ開設だと、デザインから苦心する必要もあって、それなりにパソコン操作の知識も必要だった。

今なら、メールアドレス一つで何とかなる。

立ち上げたら、レイアウトをほったらかしのまんまでも記事さえ投稿して行けば、何とかブログらしい体裁が整ってくる。そんな風に、貧乏社長も一年ほど続けてみたんだが、もう少し自分なりにオリジナルはできないものか考え出した。他人のカッコいいブログを見るにつけ、デザインに一捻りが欲しくなったのである。

それで、ガジェットと言うページ要素を好きなように配置し直した。タイトルも好き勝手に、”ブログ アーカイブ”は”何を書いたのかな?”に、”ブログ リスト”は”好きなブログ・HPだべ!”のように変えてみる。

だが、今一つまらん。
そうだ、人気ブログランキングとやらに参加して、どれぐらいの読者が貧乏社長のブログを訪ねてくれたのか、確かめてみよう。ブロガーの中にも、アイコンのバナーを貼って、”クリックをお願いします”とか言って、ランキング投票をお願いしている人も多い。貧乏社長も、この手の番付に参戦する決意を固めた。

でも、どこのブログランキングに参加した良いのだろう。

自分のブログは、タイから書いているから、海外在住者の書き手仲間に加わるのが無難だ。そこで、ふと思い出したのが、タイ・ブログランキングだった。昔、こっちへ赴任する前に駐在情報をネットでかき集めていた時に発見した、極めてオタク的で、一見すればタイのぬるま湯に浸かった人生落伍者連盟のように錯覚しかねないランキング、しかし、中には社長日記のようなブログもあって、タイの内輪で競い合うのも、また一興と決断する。

簡単に登録を済ませて、ブログページの中にポチッとお願いアイコンバナーを貼り付けようと悪戦苦闘する。それでも、試行錯誤で何とか一番見やすい箇所に貼り付けた。

それで、貧乏社長のブログは、280人中、250位で堂々と初登場を飾ることができたのである。しかしだ、ランキング最後尾のページだったら訪問してくれる人も見逃してしまう可能性が高い。せめて、一ページ目の80位まで順位を駆け上がってみたい。

そこで、貧乏社長は姑息な作戦に打って出た。

毎日毎日、自分でタイランキングバナーをクリックするわ、ブログランキングページからブログをクリックするわで、タイトル通り”ランキング上昇、手動打鍵男”に変身したのである。そのおかげのせいか、今、6月25日現在で129位と言う飛躍的上昇を遂げた。

ただし、こんなことやっているブログサイトは結構多いんじゃないのと思ってしまう。特に、商売っ気たっぷりで宣伝しているようなサイトは、従業員が昼夜兼行で腱鞘炎に罹る恐れをものともせず、上司からの命令に逆らえずクリックしまくっているんだろう。それでも、腕が痛くなっても、社長がタイマッサージでいたわってくれるそうな感じがするから、良しとしよう。

おいらのブログは、自己満足なのだ。愛する上さん一人が読者でいてくれたら、それですごく幸せと感じる貧乏社長なのでありました。(この巻き、終わり)

おまけ:
それでも、貧乏社長は、日夜、執念でクリックしまくっております。

2009年6月21日日曜日

シャトルバスが乗車拒否する屁理屈の巻き

貧乏社長と上さんは、ラーマ四世通りのカルフールへ買い物に出向くために、無料のシャトルバスを利用している。

ところが、遂に三週間前に乗車拒否をされてしまった。あっけなく、シャトルバスはわれわれを置き去りにして無慈悲にも走り抜けてしまったのだ。えーい、糞忌々しいシャトルバスめ。我等夫婦は、バスが意図するスクンビット界隈の集客目的に沿って利用し、毎週欠かさずに買い出しに出陣しておると言うに、乗車拒否をするとは商売のイロハもわきまえぬ無知蒙昧な輩どもと、思わず心の中で罵ってしまった。

乗ろうとした場所は、ルートに沿ってソイ26から左折する手前の和食のお店:紅葉亭がある前だった。理由はハッキリしない。ただ、信号機が点滅している中で猛スピードで疾走していったので、客を乗せるより曲がることに執念を燃やしていたのだと感じた。

となると、この辺りは止まって貰えない可能性が高いかもしれない。

そんなことも考えていたのだが、たまたま、つい機能の土曜日もプラプラ歩いているうちに、紅葉亭の辺りまで来てしまった。上さんは上さんで、カルフールの車が向かって来るのを遠くを指差している。こうなったら、無理にでもとめて見せようとして、手を強くひらひらさせた意思表示の上で、停車させた。

止まった。とにかく、乗ることはできたのである。

しかし、運転手がなんだかんだとタイ語でこちらに向かってまくし立てている。意味は良く分からんが、この辺りでは乗るな、他のエンポリアムのような地点で乗れとか注文を付けているような感じがした。それで、最後にバスを降りる時にも、OK?とか念を押された感じだったので、分かったような感じで相槌を打っておいた。

となると、ソイ26とスクンビット通りのT字路交差点付近は、乗車できないのが分かった。
他に乗降できるとしたら、次の五箇所になるだろう。


①ソイ26のフォーウイングスホテル前
②ソイ26のタラホテル近辺
③スクンビット通りの和食、新潟の前辺り
④エンポリアムデパートのソイ24入り口向かい
⑤グランドセティワン・マンションの前

最近は、インフルエンザ騒ぎで家族帯同の駐在員も減ったせいか、シャトルバスに日本人を見かけることが稀になって来た。今なら、このバスは何時でも空いている。ただより安いものは無いのだから、利用したらどうだろうか、と思った貧乏社長なのでありました。
(この巻き、終わり)

おまけ:
シャトルバスは、カルフール始発で10時20分から始まり、11:00、11:40、12:20のように二時間三便で20字20分まで運行されます。円ポリアム前の乗降なら、発車から約15分後にやって来るでしょう。かなり遅れる時もありますので、焦らず気長に待つことです。
カルフールでは最上階がバス乗り場になります。ソイ26-24バスの路線は、車体に書かれたナンバーでなくて、フロントグラス前に置かれた黄色いプレートでチェックしてね。

貧乏社長のギター演奏はいかがの巻き



以前の記事でも書いて見たんだが、貧乏社長はアコースティックギター演奏を、ここバンコクで三十数年ぶりに再開している。

そうこうしている内に既に半年以上が経ってしまった。その間に、ギターを爪弾いていたのかと問われれば、意外や意外、仕事から帰るとすることも無いもんだから、結構、毎日のようにまめに掻き鳴らして来た。

上さんに言わせると、日本に居た頃に聞いた演奏よりは、格段に上手くなっているらしく、少なくとも耳ざわりにはならないと言う。そうだったら、自分自身で自分の演奏を聞いてみたくなってしまった。

それで、デジカメに付属しているレコーダー機能を使って、バスルームの便器に座って演奏しながら、自身で録音してみた。もっとも、そこを録音場所に選んだのは、それなりに付け焼刃の理論武装がある。誰しもが経験することだが、湯船に浸かりながら歌をがなり立てると、上手に感じられるものだ。これは、比較的狭い空間の中では、エコー(残響音)の効果が効きやすいせいで、貧乏社長もそれを狙ってみたのである。

しかしながら、用を足す意外に奏でるためと言う、便器の新たな使い道はいただけ無かった。実際のところ、便座の位置は低いわ、座面がお尻全体を支えてくれないわで、ギターを抱えるとバランスを崩しやすくて演奏に集中できなかったのである。

それで、今一演奏の乗りが悪かったのだと言うことにしておこう。

皆さん、貧乏社長の演奏はいかがでしょうか?
良かったらコメントしてみてください。リタイアしたら、どこかの親父バンドのメンバーにでも加えてもらおうと思うのです。若い頃に、ちょっとでも夢見たことを懐かしむように、あの時は戻らなくても時間は未だたっぷりあるんだと、改めて感じた貧乏社長なのでありました。(この巻き、終わり)

言い訳:
貧乏社長は、楽譜が読めないので全くの即興演奏です。自分が覚えたコード演奏のパターンを記憶していて、その場その場で組み合わせ演奏することになります。
それから、5千円しないで買ったギターはそこそこ音は出ますが、人に演奏を聞かせられるような音が出るかは疑問です。弦も一ヶ月以上換えていないので、あんなもんでしょう。

年棒13万円の教師に贈るエールの巻き

工場長が社長室に入って来た。寄付してもらえないかと言う。何の寄付だか分からんが、先ず話を聞いてみる。

彼は、貧乏社長とあまり年嵩が離れていないのだが、妙に老成したところがある。未だ先が長いのに、リタイアしたら田舎暮らしを計画していて、農業のできる土地を前以って購入しているらしい。その時が来れば、自然と一緒に暮らせる生活を始めたいと、酒を飲んだときに話しを聞かされて来た。その農園は、かなり辺鄙な田舎にあるらしくて、人々の暮らし自体も質素で貧しいようだ。


まあ、彼自身もイーサン(東北部)の出身だから、その近くに里帰りしたいというのは理解できる。ただ、何処にその農園があるのかはこれまで詳しく聞いたことも無かった。色々聞いたが、バンコクから車を運転すると五百キロ以上もの道程になり、優に8時間くらいはかかる。しかも、途中からは未舗装のダート道を9キロも走ってやっとこさ現地へたどり着くのだと言う。


山村の名は、ハウイカポ(HAUY KAPO)と言い、タイ中部のペチャブン県北部にある。さしたる観光地も少ないせいか、タイ在住の日本人もあまり知らないだろう。


それで、この海抜500メーターにある片田舎の山村が、小学校を運営できないほど、村自体が財政難にあえいでいると言うのだ。小学校は村人達が助け合って建てたものの、資金が底を付いて小学校の先生を招聘できない事情がある。


工場長によると、所得税がその倍額で控除できるとか節税になるとか何とか言ったが、そんな理由はあんまり当てにしなかった。工場長は農園に管理人を置いているとはいえ、不在地主なので、村の住民達とは日ごろの接触も深くない。
折に触れて、有形無形の支援を申し出ながら、住民達との交流を深めておけば、老後の田舎暮らしを友好的に始められると判断したのだろう。だから、小学校の先生を雇う資金援助を、彼一人では負担も大きいので、色々な人々に呼びかけたのだと、貧乏社長は判断した。

これが、彼の本当の目的だろう。

ただ、これには別の説明もある。タイの人たちは、金額の多寡はあってもお布施を申し出るのが普通だ。仏教に深く帰依している国民だから、善行を積み重ねる目的で、タンブンと言う喜捨・寄進を誰しもがする。これは、仏教の教えで徳を積む行為につながるので、それを重ねるほど良い来世が迎えらえると信じられている。だから、工場長も日頃の信心から我々に協力を願い出たのだろう。

貧乏社長も、即座に良いよと言って、千バーツを手渡した。

結局、何だかんだと言いながら会社からも寄付したし、村人のかき集めた金額もかなりの額になって、九万バーツが集まった。これで、先生二人が一年間雇えることになる。一人四万五千バーツの年棒、日本円なら僅か十三万円にしかならない。我々の金銭感覚から言えば端金だが、現金収入の少ないタイ郡部の農村ともなれば、大金だ。


タイという国は、未だ貧しいのだ。

バンコクと言う都会に住んで、日本人の給与水準とその金銭感覚で生きてしまえば、貧しさより豊かさを享受することは絶対に可能だ。ただ、現地の人は違う。日本人が忘れてはならないのは、一日の最低日給が四百円程度にしかならない地域が未だに数多くあることだ。日本なら時給にもならない。そんな地域の教師も、我々の想像を絶するような安い給料で働いているのだ。

これが現実のタイなのだ。金銭の平衡感覚を失えば、ビジネスのセンスも損なわれる。そんな日本人は、日本へ戻っても役に立たないだろう。結局、タイにしがみついて働くだけかもしれない。

工場長は、田舎暮らしを志向しました。タイの人たちも、老後の生活設計をえり好みできるような、所得に余裕のある階層が育っている証拠でしょう。しかしながら、貧富の格差を是正するには、政府の社会保障制度の充実が、本来なら必要なのです。それができない時、仏教の教えによるタンブンが人々を助け合う、そんな思いやりの国がタイなのです。


そんな宗教によるセーフティーネット、互恵的な利他主義をタイでしかと見ることのできた貧乏社長なのでした。(この巻き、終わり)

2009年6月17日水曜日

サーバーが動かんようなので試し打ち中...戻ったべや!

とほほの状態に陥ってしまった。
ブログのサーバーが反応してくれん。
こうして、投稿だけはできるんじゃが、自分のブログURLからアクセスするとサーバーが反応していないと表示されてしまう。

サーバへの接続 gurigurimomonga.blogspot.com 失敗しました (サーバは応答していません。.)

と言う訳で、何か対処する必要があるので、試し打ちで投稿を追加したら何とか復帰するのではないかと思って、やっております。では、、、、

あの手この手で、やってみたら復帰したようじゃ。
何が原因だか分からんが、動きましたのでブログを再開いたします。

2009年6月16日火曜日

老檛国...(シンプルなタイトルには分けありの巻き)


国境の長い橋を抜けるとラオの国であった。右側が通行になった。検問所にバスが止まった。
待ちかねたように人々が集まって来て、島村の席の下の荷物室の扉を開けた。暑い喧騒が流れこんだ。娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ叫ぶように、
「人夫さん、人夫さん。」
荷物を引き出しにゆっくり向かって来た男は、クビに巻いたタオルで汗をぬぐい、麦わら帽子のつばを掴み上げた。
もう渡ったのかと島村は雑踏を眺めると、検問の官舎らしい連なりが行く手を待ち構えているだけで、ムッとする熱気はそこまで行かぬうちに体にまとわり付いた。


どうも、貧乏社長は文豪には成れそうもない。川端康成の「雪国」をパクッて見たんだが、お分かりになっただろうか。

貧乏社長は、この間の6月10日から11日、たったの二日間だけ、急ぎ足の旅でラオスを訪ねた。当社は、これでも多国籍企業なのだ。ラオスのビエンチャンには、メンテナンスの面倒を見る子会社がある。社長になって、これまで一度も視察せずに来たので、是非訪問したいと考えて来た。

お客さんのガソリンスタンドも4百ヵ所以上になったと、その繁盛ぶりを人づてに聞いている。会社を作って以来、黒字へ浮上するのにちょっと遠回りしているから、この目でしかとお国振りを確かめてみたい。そうすれば、その土地での新しい事業の展開も考え付くだろう。

居ても立ってもいられなくなった。

そうだ、半年毎の資機材の棚卸しがまもなく始まる。地方の出先支店でも実施するから、東北地方のコン・ケーン事務所の視察・激励に併せて、ラオスまで足を伸ばすとしよう。

善は急げで、担当者に連れて行ってもらうことにした。
先ずは、タイ東北部の地方主要都市、ウドンタニまで飛行機で飛んでから、ナーンカイの国境検問所まで、陸路で白タクに乗り込みぶっ飛ばす。

検問所は無事に通り抜けた。乗車賃60バーツを払って国境を越えるバスに乗り込むと、程なくして濁った河水のメコン河が見えて来る。


実際に橋を渡った時間は、一二分くらいのもんだったろう。

懐かしい、どこかで見た川面の風景だ。どこかで見ていたはずだ。どこだろう。
貧乏社長は、記憶の片隅に置き忘れた風景を必至で思い出そうとした。あの泥色のゆったりとした流れ、そうだ、あれこそ石狩川の河口付近に瓜二つなのだ。生まれ育った北海道で、おおらかに蛇行を繰り返し、ところに三日月湖を残しながら悠久の時を流れ続けて、日本海に注ぎ込む。ふと記憶の中に、鮮やかな土気色の流れが蘇ってくる。


でも、こちらはメコン河なのだ。

チベット高原に源流を発し、中国雲南省を通り、ミャンマー・タイ・ラオスの黄金の三角地帯から、タイ・ラオス国境線を伝い、カンボジアからベトナムに抜けて行く。大河は、四千キロ以上もの距離を滔々と流れる。しかも、この川幅がありながら、河口までは半分を残しているのがすごい。

対照的に、石狩川は二百数十キロの長さしかない。これでも日本で三本の指に入ると言う。日本の河川はちっぽけで箱庭みたいなもんだと、貧乏社長は笑ってしまう。

でも、どこか懐かしさを覚えずにはいられない。
やっぱり、同じアジアの国だからだろうか。
そんな気分に浸りながら、国境の橋を通り抜ける貧乏社長なのでありました。
(この巻き、終わり)

おまけ:川端康成の原文は次の通りです。良かったら、比較してみてください。
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。
 向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落した。雪の冷気が流れこんだ。娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ叫ぶように、
「駅長さあん、駅長さあん。」
 明りをさげてゆっくり雪を踏んで来た男は、襟巻で鼻の上まで包み、耳に帽子の毛皮を垂れていた。
 もうそんな寒さかと島村は外を眺めると、鉄道の官舎らしいバラックが山裾に寒々と散らばっているだけで、雪の色はそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた。

2009年6月13日土曜日

道産子は、”エッタ”で鬼ごっごをするの巻き

貧乏社長がガキだった時分と言えば、もう半世紀近くも昔の話になる。

当時の子供の遊びや生活は、とても単純でンプルだったと思う。
当時は、画面に色の付かない白黒テレビが茶の間にあって、鉄腕アトムとか鉄人28号とかテレビアニメを友達と一緒に見ることもあった。だが、それは邪道だ。
やはり、おいら達の遊びの本領は、小学校が終わった放課後から繰り広げられる、外での遊びだったと思う。缶けり、ポコペン、だるまさんが転んだ、はないちもんめとかいろいろその日その日で取っ換え引っ換えして遊んでいた。

特に、鬼ごっこもそうだったが、貧乏社長が暮らしていた北海道には、風変わりな言葉使いがあって未だに忘れられない。

それは、鬼が逃げまわる子を捕まえたときに、”エッタ”と叫ぶのである。何ゆえ、”エッタ”と言うのか今もって分からない。子供だから、年長の遊び仲間から口伝えに覚えて来たと思うんだが、大人になってからも不思議に記憶に残ったままだ。

”エッタ”って、どんな意味があるのだろう。今だったら、バタ臭くタッチとか言うんじゃないだろうか、これって北海道弁なんだろうか。

またぞろ、好奇心の塊みたいな貧乏社長の探求心に火が付いた。早速、グーグルで検索を開始する。”エッタ”と入力してトップに出たのは、ネット百科辞典のウイキペディアだった。
面白いのは、おせっかいなグーグル機能だ。検索用語の、複数キーワードの関連付けで検索上位に並べられた、検索例を紹介している。


はっきり言って、余り良い言葉ではないらしい。むしろ、差別用語と理解した。

この階級的な差別は、開拓が始まって百五十年にしかならない北海道には、存在しないものだ。むしろ、差別があったとしたら和人とアイヌ人の間だけであったのだろう。内地(本州)から開拓で移り住んだ人々は、渡ってから北海道で戸籍を作り直した人が多い。

貧乏社長の爺さんも、次男坊のせいで家督を継げずに、閉塞的な環境から抜け出すつもりで、新潟は長岡からこの北海道に渡ってきた。祖父さんが置いた本籍は、俳優の高倉健主演の名作映画「網走番外地」の網走監獄に程近い呼人(よびと)と言う辺鄙で殺風景な場所にある。
だから、北海道の人は、皆がかの土地で新しい人生を作り出そうとした人たちなのだと思っている。このためには、新しい戸籍も本籍地も自分なりに創生すれば良かった訳だ。単純な考えかもしれないが、穢多だか非人だか分からんような差別を受けるぐらいだったら、北海道へ来れば良かったのもしれない。

ただ、自由を勝ち得た代償は大きい。

移り住んだ人々は、取り合えず雨風をしのぐ仮住まいをすぐに作らねばならなかっただろう。札幌の北海道開拓の村にある、当時を再現した”開拓小屋”を見ても、質素以外に言葉が見つからない。笹や茅(かや)で屋根や壁を葺き、出入り口・窓にはむしろが垂れ下がっただけの原始的な粗末な掘っ立て小屋、入り口には扉もなくムシロが垂れ下がっている。
こんなわび住まいを拠点にして、手にした未開の原野を開墾しなければならなかったのだ。これは、言葉に尽くせない労苦を重ねたはずだ。経験した事の無い、北国の寒冷な気候が特に冬場では耐え難い苦痛となっただろう。余りの生活苦で一家離散してしまった家族もあるかもしれない。

そうやって、北海道人は生きてきた。

そして思う。何ゆえ、その人々はその地を離れられなかったのだろうと。
多分、自由を選ぶことよりも、そこで手にしていた日々の糧が、道産子達の創世よりまだ安定していたのかもしれない。外界との接触を避けて、その社会の中で肩を寄せ合い、助け合えれば暮らしていけたのだろう。他にも理由はあるかもしれない。

比べれば、あの頃の北海道にとっては差別のやりようも無かったのだ。

自由な北海道に生まれて良かったと貧乏社長は、自分の家系に感謝している。因習やしがらみが一切無く、自由に自分の人生を選んで好きなように生きていける。こんな土性骨が道産子にあるから、何時でもどこでも、そしてこのタイにおいても、飛躍できる能力を発揮できるのだと改めて感じ入った。

大分、寄り道をしてしまった。
”エッタ”の語源探しが終わっていない。

ネットで色々調べるだけ当たってみたが、語源はハッキリしなかった。
”獲った”と漢字で書く場合もあるし、鬼ごっこの鬼を英語で”it(イット)”と言うのでそれがなまって転用されたとか、はたまた、ロシア語の「エータ(これ)」から来たとか、諸説紛々なのである。はっきり言っておくが、北海道ではこの言葉に差別の意味が無い。道産子の子供達が使う純真無垢な言霊には、忌まわしい意味など微塵も無いのである。

こうして、貧乏社長はたった一つの北海道弁で、自分の郷里を思い返しながら、鬼ごっこに何も罪は無いんだよと呟いたのでありました。(この巻き、終わり)

おまけ1
用語として、差別と区別の意図的なスリ替えを認める時期に来ている。ご都合で悪いことに対しては、すべて差別と主張すべきでは無い。
以前、関西の方では○○○○同盟の支部長をしながら、病気を理由に5年9ヶ月もの間に休暇32 回、休職2回を取り、その間に市との団体交渉に出席し、給料を満額もらいながら、僅か8日しか勤務しなかった極悪な地方公務員がいたことを、忘れてはならない。差別でビジネスを創造できるのだろう。

おまけ2:
親父も仕事の関係で札幌へ引越してからは、戸籍謄本を取り寄せるのにいちいち網走の市役所へ頼むのが面倒くさくなったらしい。終いには、札幌の自宅に本籍を変えてしまった。その内、貧乏社長も上さんとの国際結婚が複雑だったので、手続き上、横浜に本籍を移してしまいました。我が家系は、北海道から内地(本州)へ捲土重来した感じもいたします。

おまけ3
アイヌの人たちは、遺伝学的に見ても日本人と同じ特質を持っていて、縄文人系なんだそうだ。つまり、日本人なのである。とは言っても、北海道の気候が厳しくて農耕も出来ないし、狩猟・採集中心の生活だったから、生活習慣・文化・言語で内地の和人に大きな隔たりが出来てしまったんだろうと思う。少なくとも、貧乏社長が北海道を出るまでアイヌの人を差別したことも見たことも個人的にありません。断言いたします。

2009年6月7日日曜日

ブログを始めて一年が経っての巻き

ブログを書き出してから、自分に変化が起きたかと自問するなら、大いにあったと思う。

先ず、文章を書くのも早くなったし、巧くなったようだ。そして、書きたい内容をどんな風に書くか、あまり話の展開を意識せずに書き上げてしまうことが、多くなった。

初めの頃は、起承転結を考え過ぎてウンウン唸って書いていたので、物凄く時間が掛かったような気がする。その内、何とはなしに自分で適当に書き上げられる一回分の原稿量が分かって来た。話の落ちの付け方にも、こじつけだろうが無理繰りだろうが収められるようになった。経験とは恐ろしいもんで、知的作業も体に覚えさせるのが一番と感じる。

かくして、貧乏社長も一丁前なのか半人前なのか分からんが、駄文書きにうつつを抜かせるようになっていたのである。趣味としては、パソコン一台とインターネットの接続さえできれば、世界中、何時でも何処でもすぐにできるもんだからお手軽と言えばそうだろう。

ただ違うのは、自分にとって書き手の生活している定点が海外になってしまったことだ。

記事になる題材は、日本で書いているブロガー達とは視点が自ずと異なってくる。このバンコクの街中とかタイの会社生活とか、身の回りの日常から嗅覚・触覚を鋭くして話題を見つけ出そうとしてきた。そして、見つけた素材からは、周辺の関連する情報をインターネットから出来るだけ発掘するようにした。最後は、それを記事に絡ませながら題材の価値を深く掘り下げようと考えをめぐらせて記事を仕上げる。

この作業はいたって面白いと感じるようになった。
そして、貧乏社長がこのブログを書く時の信条と言うべきものが出来上がったと思う。

それは、表面的な一次情報の安直な紹介だけは絶対にしないことである。つまり、単なる日記の延長線上に止まったブログは、しがないから書かないと決めたのである。日記なら、毎日業務日誌を書いているし、それ以上は蛇足だ。このタイで、上さんと一緒に暮らして生きると言うことが、一体自分の人生で何を与えてくれたのかを、もっと見極めて文章で残しておきたいと思う。

かくして、貧乏社長のブログは、私家版の編集長になった気分で筆を進めてきた感がある。僅かながらでも、日本からタイからコメントを貰えた時は感謝随喜の涙だし、丁寧に返事をお返しをするようにしている。なぜなら、自分の意図した内容に感想とか意見を聞かせて貰えること自体、新しい情報につながる可能性もある。本当にありがたい話なのだ。

すでに、自分は人生の半分以上をもう生きてしまいました。
だから、これからの残りは、もう少し自分の生き方や考えをはっきり大切に残しておきたいと考えました。そのために思索をめぐらす、この意味では、ブログは欠かせない大切な私の人生のツールとなった気がするのです。

ブログを始めて一年が経って、そんな風に考える貧乏社長なのでありました。(この巻き、終わり)

おまけ:この記事を書くにいたったのは、ブロガーの皆さんには色々な人生があるという事です。
シルバー回顧録”さんのホームページには、

HP の更新が 三ヶ月以上途絶えたら
1 : お迎え が来て、急に旅立った。
2 : 悪行の報い で、長患いの床に就いた。
3 : 認知症を発症した 。
以上のいずれかです。

と書いてありました。

2009年6月4日木曜日

毎日、夕方5時のショータイム・イン・カルフール

Dear Gurigurimomonga san,

As your request I translate in to Eng. as below:-
Please ready yourselves both physical & mind
just lift up your hands & walk straight forwardto show everyone that we never lost.
We prompt to work & service
We always reserve you many kind of goods
We never let you down


貧乏社長と上さんは、毎週末、ラーマ四世通りのカルフールに買出しに出かける。

そこで、夕方五時になると、決まってこの歌がスタッフのダンス付きで披露される。軽快なリズムに乗って歌われるせいか、幾度と無く聞く内に覚えてしまって、ハミングできるようになっていた。ただ、タイ語の歌詞もあって、意味までは分からない。知りたくなって、先週の土曜日に出かけた際に、デジカメのレコーダー機能を使って先ず録音してきた。

上さんは、タイ語が貧乏社長より上手なので聞かせてみたが、途中のボリカン(サービス)ぐらいしか聞き取れなかったようだ。”お客さんのためならサービスしまくるよー”とか何とか言っていると、はぐらかされた。

しょうがないな、こうなるとどんな歌詞なのかどうしても知りたくなってくる。ちょっとプライベートとは思いつつも、次の月曜日に出社して、総務課長のアンさんに聞き取りを頼み込んだ。

頼んだは良いが就業時間中に総務課の方から、繰り返しこの曲が再生されて聞こえてくる。ありゃー、イヤホンもつけずPCのスピーカーから生のまんま音を聞いているんだ。社長室まで結構響いてくる。ちょっと、貧乏社長は恥ずかしくなってしまった。後で、何にでも好奇心旺盛で子供みたいに聞いてくる社長とか、変な噂を立てられるんではないかと思って、ビクついてしまう。

結局一時間ほどして、総務課長が聞き取れた歌詞をメールに書いて送ってくれた。端折って書いてきた感じもするのだが、日本語に訳せばこんな内容ではないかと思う。

さあ、みんな、自分自身で体も気分も準備しましょう!
腕を伸ばし、前をしっかり歩いて、お客様にまたお越しいただけるようにお見せしましょう。
自分の仕事や提供するサービスはてきぱきとこなし、
いつも、数多くの商品をそろえて、
決して、お客様をがっかりさせることはありません。

かなり意訳なんだが雰囲気はあっていると思う。これも典型的な企業イメージソングなんだと感じた。同時に演じられるダンスの振り付けもぴったり合っていて、これもビデオに収録したいところなんだが、見つかれば警備員の人に怒られるかも知れない。次回のチャンスを窺がうことにしよう。

さて、日本でもイメージソングや社歌なんかを制定している企業は、数知れない。貧乏社長が長く住んでいた横浜の戸塚には、CGCグループのスーパーがいくつかあって、店頭でCGCのテーマソングがいつも流されていた。
 
あなたも わたしも CGC
つくるひと うるひと たべるひと
たがいにやくだて ありがとうー
たすけーられたり たすけたり
じょうずなかいもの CGC
てかごかたての かおなじみ
やすくて おいしい しなえらびー
しらせーられたり しらせたり (以下略)

ご当地のカルフールも日本のCGCも、国は違えど流通業界で商売している企業だけに、消費者に訴えかけるツボの押さえどころが似通っているのが面白く感じる。このほか、鮮魚コーナーへ回って行くと、決まって”おさかな天国”と言う曲も定番で流されていたのを思い出した。

と言うわけで、タイの企業文化をイメージソングから眺めてみても、日本企業と特段に違いは出ないんだなーと感じた貧乏社長なのでありました。
(この巻き、おわり)

おまけ:因みに、貧乏社長は、CGCグループの旧バージョンソングの方が好きです。