2009年12月31日木曜日
大つごもり、大晦日、Funal Countdown Dayなんだよの巻き
上さんの両親がバンコクに遊びに来たからだろう。
大切な身内、客人だから、付き合いの内に五日間があっと言う間に過ぎ去った。
バンコクの観光案内をしながら、翌日は休むと言うパターンだ。
休んだにしても、近所のデパートやらで買い物をする、それなりのパターンを繰り返していた。
だから、意外に時間の流れは早かったのである。
こうして、そんな年越しになってしまった。
そして、紅白歌合戦を見ながら晩餉(ばんげ)となった
家内の両親は、日本語が分かるから楽しんでいる。
そして、白組が勝った後も、行く来る年の番組を楽しんでみていた。
こうして、カウントダウンなども知らぬままに、増上寺の風船上げは宗教色とはかなり場違いで、単なるイベント一色のままで空に向かって飛び上がるのを中継されるに及んで、年も明けて2010年になったのだと、自分自身も悟った。
ただ、言わせてほしい。
日本の年が明けただけなのである。
タイのバンコクまで、思念がめぐりくるにはまだ二時間あるのだ。
この猶予、余韻を日本人として、何として過ごせば良いのであろうか。
何を思い、何を新しき年に望まんとして思い巡らせばよいのであろう。
私は、異国の地で日々の糧を求め、二年近くを奮闘してきた。
今は少し余裕も出てきたかとは思う。
会社のこと、従業員のこと、家内のこと、各々が縦糸横糸となって、自分の人生をあやどって来てくれたのは言うまでもないし、感謝させていただきたい。
色々なことを考えてしまったが、先ずは自然体のまま自分に偽らずに暮らして行こうと思う。
器用で無いのは分かっている。
自分を見失わずに、節度分別のある日常生活しか思い浮かばないのである。
と言うわけで、新年明けましておめでとうございます。
今年も、昨年同様にちんたら書きつないで行くことが出来れば、幸せだなーと思う貧乏社長なのでした。
(この巻き、終わり)
おまけ:
晩餉は北海道弁でしょうか?
もっこめし、ガッチャキの言葉と一緒に、次回の北海道人会で確認したいと思います。
2009年12月28日月曜日
タイ人も神様、仏様、お稲荷様だったのだの巻き
これから、色々な観光地を案内しようとセットはしてある。
ただ、おとついのスワンナプーム空港に着いたのが、夜の十一時近くだ。だから、昨日はゆっくり休んでもらうことにした。
とは言っても、家の中にじっとしているのも趣味が無い。
お昼ご飯で出かけたついでに、どこかへ出かけようと考えた。
上さんは、高架鉄道のBTSで出かけるのが適当と考えたようだ。
ここプロンポン駅から四つ目のチットロム駅で降りると、いつも人々でごった返すエラワンプームがある。この辺りは、、ラートプラソンという大きな交差点だ。大きなショッピングモールもあるから、見物した後は、買い物でも食事でも立ち寄るのに便利だろう。
そんなことを考えつつ、出かけて行って収録したのが、この動画なのである。
エラワンプームは、とにかく人がごった返していた。
お線香の香りなのか、特有のにおいが鼻をつく 。
煙がもうもうとして、辺りは霞んで見えるような感じだ。
浅草寺のような日本のお寺でも、線香はたかれている。
体に浴びれば無病息災になるとか言って、手で煙を自分に手繰り寄せる人々がいる。ごく普通の光景だけれど、こちらでは誰もそんなことはしない。
ただ、ひたすらに個人個人でお線香を上げ、熱心にお祈りをして祠(ほこら)の神様に何かを拝んでいるだけのようだ。
この祠は、タイ語でプームと言う。
このエラワンでは、ヒンドゥー教の神ブラフマーが祀られていた。
キンキラキンの4面神像は、間違ってお釈迦様には見えない。
タイ人は、大半が仏教徒であると聞いていた。
何ゆえ、庶民はヒンドゥー教の神にご利益を願うのであろう。
不思議でならない。
それで色々と調べてみた。
どうも、こちらの文化はインドの影響を強く受けているらしい。
タイ語の単語の多くが、サンスクリット語やバーリ語など、インド系言語からの借用になっている。国王の正式名称も”ラーマ※世”と言えば、ヒンドゥー名の由来だ。壮大な叙事史劇「ラーマキエン」も、古代インド・バラモン教の大叙事詩「ラーマーヤナ」を拝借して創作された。
それに、タイの仏教は上座仏教で、インドからの南方伝来だ。
経典も、文語のパ-リ語が用いられている。しかも、寺院ではヒンドゥー教のガネーシャ神を祀る場合も多い。本尊はあくまで仏陀なのに、その傍らに象さんの神を祀っているのである。
まあ、仏教もヒンドゥー教も興った場所は、同じインドなのだ。
しかも、仏教の方が歴史が浅いのも事実である。
だから、極端な話で言うと、仏教はその一派だと見なされても、あながち嘘にはならない。
確かに、日本にいてもそう思わざるをえない。
日頃、自分たちもありきたりにたくさんの神様を信心している。
帝釈天、
梵天、
大黒様、
金比羅様、
弁天様、
毘沙門様、などなど、
でも、この神様一行は、ヒンドゥー教伝承で舶来なのであった。
日本には八百万の神がいると言われている。
中には、外人部隊の助っ人までしっかり加わっていたのである。
となれば、恥ずかしながら、日本人はかくも宗教的に節操が無いのかもしれない。
ご利益があると言うのなら、神様、仏様、お稲荷様なのである。
と言うわけで、タイ人が仏教徒なのに、浮気をしてヒンドゥーの神様を拝んで他力本願するのがけしからんなどと、日本人は口が裂けても言ってはいけないのです。ご利益があるのなら、庶民はどんな神様にもすがるものです。タイの人々もそんな気持ちでエラワン様を拝んでいるのだろうと感じた、貧乏社長なのでした。
(この巻き、終り)
2009年12月26日土曜日
青空文庫は時空を越える図書館の巻き
この文庫は、インターネット上に開設された電子図書館だ。
公開された作品は、一部を除いて著作権の消失した文学がほとんどである。
だから、誰もが自由に無料で作品を読めるようになっている。
小説家のような物書きは、書いて何ぼの原稿料と印税を稼ぎとする商売だ。ただし、亡くなってから半世紀を過ぎてしまえば、著作権は消えてしまう。そうなれば、作品の使用料となる印税は、払う必要も無くなる。
青空文庫は、そこに目を付けた。
著作権が無くなれば、作品は社会の公有財産として残される。
それを尊重して扱う限り、入手・閲覧は制約を受けない。
図書館に眠るだけの貴重な蔵書も、ネットを通じて簡単に公開できるのだ。
こうして、今を遡ること十年以上も前に、文学作品のデータベースとして一般公開が始まったのである。
これは、革命的と言ってよい。
ネットの通信環境さえあれば、自由に作品を鑑賞できるようになったのだ。日本語が分かるのなら、誰であろうと世界中のどこであろうと何時であろうと、OKなのである。
そして、このありがたみを海外に住んで初めて分かったような気がした。今や、日本人は国境を越え百二十万の人が海外へ雄飛している。
右を向いても左を向いても、日本人は自分だけと言う土地も必ずあるだろう。日本語の本を読みたいと思い付いても、手に入れる当てなど無いかもしれない。そんな土地柄で、もし電話回線が確保できて、ネットが何とかつながるのであれば、この電子図書館は大いに活用できるのだ。
そんなことを思いながら、本当に久しぶりに青空文庫をのぞいて見た。
作品数も八千五百までに達していると言うから、凄い。
興味があったので、11月のアクセスランキングをちょっとのぞいて見た。
1位: こころ(夏目 漱石)
2位: 桜の森の満開の下(坂口 安吾)
3位: 走れメロス(太宰 治)
4位: 人間失格(太宰 治)
5位: 坊っちゃん(夏目 漱石)
6位: 吾輩は猫である(夏目 漱石)
7位: ヴィヨンの妻(太宰 治)
8位: 銀河鉄道の夜(宮沢 賢治)
9位: ドグラ・マグラ(夢野 久作)
10位: 〔雨ニモマケズ〕 (宮沢 賢治)
定番と言っていい名作がランクインしている。
自分が中高生の頃に、読んだ作品が多い。
それに、坂口安吾は未だ読んだことがないから、今度読んでみよう。ただ、夢野久作は自分の趣味に無い作家だ。個人的な意見だと断っておくが、小説の着想は面白くても文章が感心しない。
読んで文章の造形力に圧倒されるのは、芥川龍之介、中島敦、太宰治だろう。
彼らも、ランク五百位までの常連のようだ。
それに中国の作家、魯迅もランクに入っている。
亜Q正伝、故郷、狂人日記、みな若かりし頃に読んだ作品だ。
いや、懐かしい。
そして、こんな作品まで収録されていたのを発見して喜んでしまった。
”ごん狐”で有名な童話作家の新見南吉。
被爆体験が作品に昇華した”夏の花”の原民喜。
型破りな視点の哲学書”「いき」の構造”の九鬼周造。
荒削りだが繊細な感性の残る、若くして夭折したアイヌの歌人、違星北斗。
知っている人は、知っているかもしれない。
知らないでいても、日々の生活に事欠くようなものでも無い。
いや、海外に住んでいるからこそ、読むべきだと思うのだ。
今改めて、日本と日本人とは何だろうと、異国で考え直したり見つめ直す。ちょっと高尚だが、青空文庫を通じてそんな作業をできるのではないかと思ったのである。
と言うわけで、夜更かししてまで本を読み漁り、できれば小説家になりたかった若き自分を思い返しました。途方も無い夢ではあったのですが、今こうしてブログを書いてコメントも折に触れていたいだいて、それはそれで望みをかなえたのかもしれないと思う貧乏社長なのでした。
(この巻き、終り)
おまけ:
トラーリさん、あなたのブログ記事を読んで、ネタを書いてみたくなりました。どうも、ありがとうございます。
2009年12月25日金曜日
34才は女性にとって微妙なのかもしれないの巻き
確かこの人、三十路の婚活女性詐欺師だったと覚えている。
ついこの間まで、マスコミを賑わせていたはずだ。
そして、火がついたように、面白おかしくブログで書いていた人も多い。
ただ、ネタとしては即効で賞味期限切れになった。
「他人の噂は七十五日」と言う諺がある。
それをよく示した事例なのかもしれない。
今は、警察に捕まって拘置所で拘留中なはずだ。
容姿から見れば、ブタ箱入りは当意即妙である。
それで、検察官の面前で供述する調書取りの毎日が続いているのだろう。
ただ、この話題はネット界隈でかなり活況だったから、未だに面白いネタの残滓が、情報という目に見えない浮遊界に漂っているようだ。
特に、新聞記事なんかの電子切抜きが散見されて面白い。
グーグルの画像検索でこのブーブーの名前を入力して検索する。
検索すると、次のような記事が引っかかって来た。
ネタとしては、カストリ風の格好なゴシップネタには違いない。
ただ、個人的にけしからんことがある。
このピギー姐さんは、北海道出身だと言うのである。
自分の同郷に、かくも極悪非道な魔性の畜生が蠢いていたのだ。
おおらかな道産子なら、軽い嘘も出よう。
だが、人を騙し死に至らしめる行為は、犯罪なのだ。
お縄について当たり前、罪を償って当たり前だと思うのである。
さて、そんな34歳もおれば、市井にはごく普通に生活を送る同年齢の女性も居るのではないだろうか。
もし、そのような人が婚活中だったとしたら、この事件は、至極迷惑千万な話だろう。
実を言うと、この容疑者が匿名のままネットで有名になりだした頃、年齢だけが特定されていたので、その34歳を使ってググって見たことがあった。
そのときに、軽妙な漫画のブログを発見した.
タイトルは、”34歳☆無職さん”。
誰が、どんな動機で書いたのかも分からない。
ただ、ひとコマひとコマのキャプションが、妙に現実じみていて説得力があり、気に入ってしまった。
と言うわけで、この漫画に出てくる無職さんなら、十分に魅力的な女性なんだけどと思った貧乏社長なのでした。
(この巻き、終り)
おまけ:
詐欺師の婚活毒婦だけあって、料理がお上手のような騙しのブログをせっせと書いていたようです。
2009年12月22日火曜日
16億円のチンケなテロ国家の巻き
武器密輸をやるなら、核弾頭一発一千億円とかかましてみろ。
どでかい商売であっと言わせてくれるのなら、拍手喝さいしてやるのだ。
ところが、はした金の16億円でせこい商売に手を出したのが運の尽きだ。
この12日に、バンコクでとっつかまるとは情けない。
かの国は、国際社会を相手に真っ向から非合法で勝負してきたはずだ。もう少し、まともに大胆にやれとか言いたくなってくる。
まあ、それほどに叱咤したくなるほどの寂しい金額ではある。
それで、どんな武器が積み込まれていたのだろうと興味が湧いて来た。そんな時に、こちらのバンコクポスト紙で記事が掲載された。
どうやら、積み込まれていたのは三種類の武器のようだ。
◆M1985 240mm自走ロケット砲 - 2台
12連想のロケット発射台を軍用トラックに載せた自走式のロケット砲と言うことになる。
自分は軍事オタクでも無いので、調べてもそれぐらいのことしか分からなかった。
ただ、イリュウシンの貨物機に合計で40トン近くも積んでいたとあるから、二台のトラックを乗せることぐらい、お茶の子さいさいだったのだろう。
◆地対空ミサイル - 40発
これが一体どんな目的・用途のミサイルなのか、素人にはさっぱり分からんのであった。でも、ミサイルとあるから射程距離はあるけれど、日本までは届かん程度の武器だろう。
◆RPG-7 ( 歩兵携行用対戦車擲弾(ロケット弾)発射器) - 数百発
旧ソ連が開発したのを、勝手に北朝鮮がパクッて作っているのだろう。
英語では、Rocket-Propelled Grenade(ロケット推進擲弾)と綴られているから、略してRPGなのである。破壊力ではコストパフォーマンスに優れていて、発展途上国の 軍隊やゲリラなどにより幅広く使用されている。別名「スーサイド ウェポン(suicide weapon,自殺兵器)」 とか言うらしい。
それで、この武器はイラン向けに第三国経由で密輸されようとしていたらしい。誰が備えようと構わんのだが、実戦で使おうとする危険人物・国家は、お付き合いをご免こうむりたいと言うものである。
と言うわけで、あっさり押収した武器を簡単に紹介してしまったタイのマスメディアなのでした。この勇気、脳天気さにえらく感銘を受ける貧乏社長だったのです。
(この巻き、終り)
2009年12月21日月曜日
癒しグマを風呂に入れてあげるの巻き
もちろん、生き物じゃない。
癒しグマとして、日本から連れて来た二匹のぬいぐるみのことだ。
自分ら凸凹夫婦には、子供がいない。
二人とも四十を超えてから出会って結婚した。
子供を授かろうにも、育てようにも、残された時間があまりに少ない。
だから、子供のことは考えないようにした。
その代わりと言ってははばかるのだがが、凸凹夫婦は、このバンコクにまでクマ二匹を連れてくることにした。それで、大きいのとチューリップを手にしたクマが我が家に居座ってくれているわけである。
大きい方は、既に上さんと一緒に四つの国を巡り歩いてきた。
小さなチューリップの方は、海外に住むのは始めてだ。
しかし、バンコクの大気は意外に汚い。
日中は窓を開け放して、家の中に空気を取り入れている。
ちりやほこりも自然と流れ込んで来るのだろう。
クマ君たちは、意外に薄汚れてくるのが早いようだ。
少なくとも一年に一回は、洗ってあげたくなる。
それでも、雨季の頃は湿気も多くて乾きにくいから、敬遠していた。
こうして待ち焦がれた乾季が来て、お風呂になったのである。
しかし、写真を見ている限り、本当にお風呂に入った感じがする。
何となく、気持ちよさそうな気分が漂っているのである。
と言うわけで、凸凹夫婦と共に暮らすクマ君たちは、気分もリフレッシュして幸せそうな面持ちだったのでした。
(この巻き、終り)
2009年12月20日日曜日
景勝のエラワン七滝で締めたカンチャナブリの旅の巻き
二日目は、家路に着く前に、エラワン七滝巡りをするのだ。
タイの人も滝見をするのが好きらしい。
初日のサイヨーク・ノイ滝では、地元の人でごった返していた。
持ち込んだゴザを広げては、くつろいだ気分で食事をしたり、酒を酌み交わしている。
子供達は、浅瀬の滝つぼに入って水を掛け合い遊んでいる。
エラワンの滝もそんな感じだろう。
そんな風に思いながら、ミニバスに乗り込んで、いざ出発した。
小一時間は走っただろうか、この滝は国立公園の中にあるらしい。
入り口の検問所では、入園料を払わなければならない。
本当なら、外人は二百バーツで、地元の人間は四十バーツだ。
地元の人も加わったから、ガイドは彼らを前の座席に乗せていた。
全員地元の人に見せかけて、安く上げる魂胆だったのかもしれない。
ところが、後ろの能天気なインド系の馬鹿が一言余計にほざいたのだ。
”ノーマネー、ノーマネー、プリーズ・レット・ミー・ゴー”
よせば良いのに、自分は外人だと宣告してしまったのである。
嘘がばれてしまったガイドは、しぶしぶ規定の料金を払ったようだ。
多分、金を節約して小遣いでも稼ぐ気だったと思うのだ。
その後、ガイドは不満を隠さずに、投げやりな仕事になったのは言うまでも無い。適当で、聞きたくも無いようなブロークンな英語の説明に嫌気が差して来た。
とにかく、ガイドから分かれて滝の遊歩道を歩き始める。
途中で、チェックポイントがあった。
飲み物のペットボトル一本につき、二十バーツのデポジットを取ると言う。ペットボトルに照合の番号を書いてもらい、規定の料金を払った。後で戻ってきた時に、そのペットボトルを見せて、お金を返してもらうことにする。
ここは、国立公園なのだ。
だから、環境美化のためにゴミを捨てさせない努力を払っているのだろう。
そんな手続きを踏まえて、エラワンの七滝めぐりが始まる。
九時半にスタートし、ガイドは正午に戻って来いと指示をだした。
二時間半なら、戻ってこれるだろう。
何とか間に合って下りてきた時は、結構へとへとだった。
七つの滝の連なりは、意外に高低差が激しかったのである。
それに、運動靴を履いて来てよかったと思った。
遊歩道は整備されているとは言え、ちょっとした山登りだったのである。
ところで、最上部の滝には、大きな岩肌が存在していた。
滝を見下ろすかのような位置にある。
それが象の頭部に見立てられたようだ。
エラワン、すなわち象の滝になったのだと言う。
自分には、何となく姿かたちが読み取れた。
だが、上さんは最後まで雰囲気が伝わらなかったようだ。
見る人の気分次第なのだが、その程度のものかもしれない。
と言うわけで、旅の最後を締めくくったエラワンの滝は、なかなかの景勝地でした。バンコクから最も近場の山の観光地と言えば、カンチャナブリが定番なのだと言うことを、改めて認識した凸凹夫婦なのでした。
(この巻き、終り)
コストパフォーマンスだけは最高のツアーパックなのだの巻き
食事をする船着場兼食堂から、ボートに乗って移動する。
かなり離れていて、五分以上は優に掛かった。
かなり離れた場所だから、船以外の行き来は無理かも知れない。
それで、自宅に戻ってから、場所を特定しよう試みた。
グーグルの地図で縮尺を上げながら、川の蛇行をなぞって見る。
記憶に残っていて、目印になるような建造物も手がかりにした。
かなり悪戦苦闘したのだが、ようやく目的地の位置的な関係が定まる。
ただ、象さんに乗った場所がはっきり分からなかった。
船着場のすぐとなりにある橋を渡ったのは、分かっている。
確か、宿泊先の方に向かったと思うのだが、ハッキリしない。
まあ、分からなくてもそれで良しとして、旅の思い出にしておこう。
とにかく、このツアーはそれなりに内容が満載だった。
象さん乗りに続いて、いかだの川下りとサイヨーク・ノイ滝も見に言った。
そして、前に紹介したようにナムトック駅から列車に乗る体験もした。
後は、食堂で早めの夕ご飯を取ったら、ボートで移動する。
それで、食事だけは期待しないほうが良い。
最低限に栄養補給ができると思ったほうが無難だった。
とにかく、まずい。まともな飯がカオパ(チャーハン)だったと言えば、分かってもらえるだろう。
これも、一泊四食で一万円しないのだから致し方ない。
宿も、お世辞ですばらしいなどと口が裂けても言えない。
洗面所のシンクは、詰まっていて水漏れしていた。
部屋の仕切り壁も竹で編まれていて、話し声が筒抜けだった。
だから、プライバシーなんかありっこもない。
これも、いかだの水上に浮かんだ宿ゆえ、軽量に造作する必要があってのことだろう。
と言うわけで、コストパフォーマンスが総てなのである。
割り切って楽しむのが、このツアーの醍醐味だと感じてしまう。
宿には、テレビもラジオも見当たらない。
夜になってしまえば暗く、ただ緩やかに流れる川の音がするだけだ。
こうして、凸凹夫婦はすることも無く、勝手に持ち込んだ生ぬるい缶ビールでちびりちびりと晩酌したのです。そして、一日目の夜は更けて行くのでした。
(この巻き、終り)
2009年12月19日土曜日
カンチャナブリの女性像使いの巻き
このキティ・ラフト・ツアーでは、象乗り体験が組まれていた。
午後一番の予定なので、先ず腹ごしらえに昼ごはんを食べる。
その後、バスに乗ってクウェー・ノーイ川に掛かる橋をすぐに渡り、程なくして象キャンプに到着してしまった。距離にすれば、五キロもしないほどの近場のようだ。
客を出迎える施設は、ささやかながら存在はしていた。
ただ、バンコク近郊のローズガーデンとかチェンマイのメーサーキャンプのような充実した施設には及びもしない。多分、宿泊設備の経営者が付属にこさえた小規模な施設のように見える。
それで、添乗の女性ガイドに早く乗れとせきたてられたのだが、これがひどい。
私は喋れるのよと自慢げなのかも知れないが、命令口調で言いたい放題の乱暴な言い回しに呆れる。きっと、そこら辺の不良外人のボーイフレンドから体で教わったいい加減な英語なのだろう。
そんな不愉快はさておき、いの一番にわれわれ凸凹夫婦が乗ることになった。
ちょっとこぶりの象に見える。
まだ十分に大人になりきっていない象かもしれない。
しかも、まだ二十歳前後と思しき女性が操っているのだ。
本当に、大丈夫かなーと心配になった。
案の定、われわれを乗せても動こうとしない。
すぐ始めのちょっとした坂をぐずぐずして上ろうとしないのだ。
その内に、二番手の大きな象が横に並んできた。
ちょっとの間、この小さな象をなだめるかのように鼻で体をさすったりしていた。
この象さん、意を決したかのようにぐいぐい坂を上がりだす。
この後は、畑とは思えない粗放な開墾地を通り抜けて行った。
ゆっくり、のっしのっしと、踏み跡程度の獣道をなぞって歩く。
象の足踏みにあわせながら、体が左右にゆれ上下する。
さわやかな暑い日差しを受けながら、これも心地よい。
上さんが、手習いのタイ語でこの象使いさんに尋ねてみる。
すると、この象さんは未だ七歳程度のようだ。
この女性が、生まれてからずっと面倒を見ているらしい。
となると、彼女が二十歳とすると十三歳の時からになる。
随分と幼い時から、家族の一員として一緒に暮らしてきたのだろう。
しかも、メス象のように見えたから、女同士のコンビな分けだ。
でも、七歳とは随分に若い。
自分が見聞きした限り、象は、生まれてから大人の像として象使いと一緒に働き始めるまで、十年以上掛かると思っていた。昔なら、山深い山林に分け入り、木材の伐採・運搬をする重労働だから、象さんも大人の体が必要だったはずだ。
でも、こんな話はすでに昔のことだ。
二十年前、タイ政府は主なチーク材の伐採活動を禁止している。
つまり、象さんたちは働き口が無くなってしまったのである。
今はかろうじて、観光の分野が働く場所だ。
人を遊覧で乗せたり、芸をショーで披露しているに過ぎない。
それで、やっと象さんたちは糊口をしのいでいる。
だから、七歳でも仕事が事足りたのだろう。
それにしても、象使いさん自身もやり切れないかも知れない。
先祖代々に受け継いで来た仕事に、胸を張る活躍の場が無い。
帰りのバスの中で、ふとそんなわびしいことを考えてしまったのである。
と言うわけで、象さんの引退は約50歳の頃だそうです。
その頃には、象使いの彼女も同じく引退しているでしょう。
そして、この主従に、この先の生活に幸多からんことを心の中で祈った、貧乏社長なのでした。
(この巻き、終り)
2009年12月18日金曜日
泰麺鉄道のクワイ川鉄橋を渡り、ナムトック支線に乗車してみたの巻き
しかも、第二次大戦名残の観光名所で、日本は敗戦国の身分。
となれば、ちょっとヘビーな面持ちにはなってしまう。
ただ、天気は晴れ上がって、乾いた空気もあってさわやかだ。
そんな季節が気分をなだめてくれる。
随分と昔の話だし、今は観光のネタだけなんですよ。
今を生きるガイドの本音は、そんなものだろう。
マイペンライ、マイペンライ、と言うことか。
バスに乗り込んだら、五分もせずに次の名所に到着した。
これが、午前中の本命、クワイ川鉄橋見物なのである。
この橋は、はじめ日本軍によって建設された。
タイとミャンマーを結んだ泰緬鉄道(たいめんてつどう)の一部なのだ。と言っても、今は部分的なローカル線が生き残っているに過ぎない。タイ国鉄がささやかに運営する南部線の支線、ナムトック線なのである。
半世紀以上の第二次世界大戦中に作られた鉄路。
もったいない話だが、連合国軍によって一部を残し撤去された。英語名称は Thai-Burma Railway。でも、英語圏ではDeath Railway (死の鉄道)の方が有名だ。
なぜなら、日本軍が連合軍の捕虜をこき使って建設したからだそうだ。有名な映画「戦場にかける橋」は、それをモチーフにしている。あの口笛でメロディーをなぞる主題歌のクワイ川マーチも有名だ。
余計に説明したって始まらない。
旅の記念にもなるだろうと思って、スライドショーも作ってみた。
ところで、あの橋は驚きだが、現役だったと言うことだ。
観光客が気にも止めず、ぞろぞろ歩いて渡る。
だから、記念に残したとつい思ってしまった。
ところが、本当の気動車が通過して行ったのである。
警笛を何度も鳴らされて、観光客は右往左往する。
蜘蛛の子を散らすように橋を渡り切る人もいる。
それがダメならば、退避できる踊り場で通過するのを待つ。
自分たち凸凹夫婦は、退避できる作戦を取った。
通過する車両に乗った乗客が車窓から手を振ってくれる。
とても、楽しい思い出になったのである。
この後、夕方になってナムトック線にも乗ることができた。
本当は、鉄橋見物の後、乗車できる予定だった。
ところが、ガス欠で給油に行ったバスがなかなか戻ってこない。
そうこうする内に、今度は、列車がすでに発車してしまったと言う。
ガイドからは、乗車は後回しにするといわれたがしょうがない。
急遽、スケジュールを組みかえたのだが、ちゃんと乗れたのだからOKとしよう。
そんな分けで、懐かしい堅い木の座席の三等車に座ることもできて、鉄道好きな童心に返って旅を楽しんだ、貧乏社長なのでした。
(この巻き、終り)
2009年12月16日水曜日
ツアーパックでカンチャナブリへいざ出陣の巻き
だから、寝坊しないように目覚ましでちゃんと起きて、準備をする。
アパートを出たのが六時半過ぎ、でも、車は影も形も無かった。
本当に来るのか半信半擬になる。
ほど無くしてミニバスがやって来てほっとした。
運転手のお兄さんが、乗車リストを見ながら名前を確認する。
それが済めば、キティラフトのシール胸ポケットの辺りに貼ってくれた。
観光地で自分の観光客を見分けるのに使うんだろう。
乗り込んだら、すぐに車は走り出す。
スクンビット近辺で、先ずロシア人夫婦を乗せる。
それから、バックパッカーの聖地、カオサン地区に向かった。
そこで、カップル二組を加えて、今度こそ本当の出発だ。
実を言うと、この五日はプミポン国王の誕生日だった。
ミニバスが通過した王宮付近では、祝典の行事があるようだ。
朝の早い内から、行事に参加する人々が、大勢集まっている。
そんなお祝い雰囲気の中、バスはチャオプラヤー川を渡る。
一路カンチャナブリを目指し始めたってことだ。
途中のガソリンスタンドで、おトイレタイム。
コンビニ併設だったから、暇つぶしに店内をうろつく。
紙の皿やら、プラスチックのフォーク・スプーンやらが目に入る。
きっと、行楽地へピクニックで出かける人も多いんだろう。
自分も、プラスチック製コップ二個を十バーツで買った。
凸凹夫婦は、しっかりしているから缶ビールも買い置きしたのだ。
観光地なんて、二倍以上の値段で吹っかけられるからもったいない。
でも、コップまでは持ってこなかった。
缶で飲むより、コップに注いで飲むのも乙なものだろう。
そんな休憩もおわり、バスは一路目的地を目指して突っ走った。
途中のいくつか大きな市街も走馬灯のように過ぎ去ってゆく。
これはと思う、大きな街中に入ったら、それがカンチャナブリだった。
停車した先は、外人墓地。
連合軍の戦没者を埋葬した墓石が、理路整然と美しく並んでいた。
西洋人の見学者・参拝者がひきもきらない。
勝てば官軍だと思う。
ジャングルの中に埋もれたままの日本人遺骨もあるだろう。
野ざらしのまま、拾われず野辺の送りもしてもらえず、朽ちて行く。
戦争の行為は、いかに悲惨なことか。
そして、遺族の人たちの思いが、墓石に刻まれていた。
”彼は死んだのではない。行ってしまったのだ。”
こうして、ちょっと考えさせられる見学から始まった、カンチャナブリ観光なのでした。
(この巻き、終り)
2009年12月15日火曜日
キティ・ラフト・ツアーの資料は全部英語だったの巻き
ここはバンコク、外国なのだ。
だから、日本語にこだわる必要も無い。
英語が多少話せればなんとかなる。
外人向けツアーだって、いろいろな人が参加している。
どうして、日本人だけでツアーを組みたがるんだろう。
パンフで見掛ける、有名なウエンディーとかパンダの日本人ツアー。
前にもそこで使ったことがあるけど、日本人どうしはどうも新鮮じゃなかった。
海外まで来て、身内だけの感触はいただけない。
だから、自分達凸凹夫婦は、あえてあそこの旅行代理店を使うんだ。
それは、NANA CHART TOUR & TRAVEL。
日本人の多いスクンビット通りなのに、お隣は国際ユースホステル。
だから、お客さんは欧米の人が多い。
当然、コミュニケーションは英語だけ。
でも、たどたどしくても時間が掛かっても、ツアーの交渉は面白い。
自分は会社があるから、上さんが出かけて話をまとめて来てくれた。
一泊二日の日程は、こんな感じだ。もちろん、資料はみーんな英語。
※クリックすると大きく見られます。
かなり文法がいい加減なんだな。
だけど、意味がなんとなく分かれば、このツアーに参加できる。
とにかく、出発の明日を楽しみに、ゆっくりお休みするとしよう。
と言うわけで、そんな前日の段取りが過ぎていったのでした。
(この巻き、終わり)
2009年12月14日月曜日
キティ・ラフト・ツアーに参加してみたの巻き
乾季が始まると、気温も下がって過ごしやすくなる。
こんな時季は、どこかへふらっと出かけたくなるものだ。
バンコクの大都会に住んでいると、自然がものすごく恋しくなる。
山やら海やら、どこか開放的な気分に浸れる場所へ行って見たい。会社とアパートの往復だけでは、何だか日々の生活が物足りなくなった。貴重な週末は時間を浪費せずに、どこかへ旅立ってみよう。
そんな気分で、十一月のとある日、旅行を思い立つ。
話を切り出すと、上さんも乗り気になってくれた。
それで、近所の旅行代理店へ行って相談してくれると言う。
前にも、安・近・短の手ごろなツアーが無いか相談した場所だ。
今回も気軽に相談に乗ってくれるだろう。
上さんは、海より山へ出かけたいらしい。
そうなら、近場と言うとカンチャナブリしかない。
しかも、十二月は五日から格好の三連休がある。
これを狙って、旅立つことにした。
結局、一泊二日で出かけて最後の日は、ゆっくり休むことにした。
二泊三日のプランも考えたが、ちょっと体がきつい。
何事も、気楽に行動するほうが良いのだ。
お値段は、一泊四食付の三千五百バーツぽっきり。
今のレートなら日本円で一万円もしない。
しかも、自分のアパートまで送迎してくれる。
これで、本当に旅行の中身が大丈夫なの?
ちょっと、心配になった。
それで、カタログを開いて見る。
宿の名前は、Kitti Raft、子ネコのいかだだって言うんだ。
けっこう可愛い名前だ。
象に乗ったり、滝めぐりをしたり、水上のボートハウスに泊まったり、色々とメニューはありそうだから、一つぐらいはヒットするだろう。
カタログも英語なんだ。
グーグルで探しても、コンファラン(白人)がブログで紹介しているのがやっと。
どんな旅になるやら、見当もつかないけど、ワクワク、ウキウキには違いない。
と言うわけで、凸凹夫婦の旅支度は続くのでした。
(その一、この巻き、終り)
2009年12月12日土曜日
20度を超えていても、寒いのが常識なのだの巻き
今年は、月初めに気温がぐっと一時的に下がり、涼しい乾季の季節がやってきたと感じたものだが、その頃、日本では冬将軍の第一波が日本を訪れていたらしい。
北海道の各地で初雪が降ったと、冬の訪れを知らせる記事を新聞で読んだ。
自分の郷里、札幌は、11月1日でほぼ平年並みだと言う。自分の思い出としては、昭和43年十月十日の体育の日に降った初雪が一番早いのだが、例年なら十一月の第一週あたりで初雪が訪れていたような気がする、今年は、ありきたりの年なのだろう。
だから、暖冬になるのか、しばれる冬になるのかは、まだ分からない。本格的な冬はこれからだし、クリスマスの頃に訪れる寒波でドカ雪が降れば、今年は寒くなるかもしれないと思う。
実は、タイもこの寒波の影響に受けずには入られない。凍てつくシベリア寒気団が南下しながら、日本や中国の北部を通り去った後は、多少温くなりながらも残った冷気が、やっとこさタイまでたどり着くのである。
だから、ここバンコクで、ぐっと朝が涼しくなり出したのも、そのおかげなんだろうと思う。過ごしやすい季節が巡ってくるには、この寒気団が欠かせないと言うのであれば、冬将軍さまさまなのだ。北の方角に向かって、手を合わせて拝まねばならない。
そんなことで、日本の天気の話が、タイの天気にまで関り合って来るというのは意外なことで面白い。ようやく、エアコンも扇風機のスイッチも切って、窓を開け放しただけで眠れる季節が巡って来たのだ。暑さが大敵な道産子にとって、こんな至福の日々を無駄にはしたくないと、心底思うのである。
そんな乾季の到来を、こちらの新聞でもはっきりと確かめられるようになった。
毎朝、配達してくれる英字新聞のバンコクポス紙には、天気予報欄がある。最近は、各地方の天気概況で、毛糸の帽子をかぶりとマフラーを首に巻いた少年のアイコンが、必ず登場するのである。
ただ、驚くのは最低気温が20度以上でも、Cold、すなわち寒いと示していることだ。日中は、30度以上に必ず上がるため温度差も大きくなる。そんなことから、地元の人は朝の冷気が身に応えるのかもしれない。
北国の出身者にとっては、毛糸の帽子もマフラーも信じられない。ごく普通に北海道地方の夏の朝なんだが、やはり、こちらは南国なのである。暑さ・寒さの感じ方も、大いに異なると言うことにしておこう。
そんな分けで、こちらに住み着いてから一年半以上が経ったにも拘わらず、季節感のギャップだけは克服できずに、つい日本と比べてしまう貧乏社長なのでした。
(この巻き、終り。)
2009年12月8日火曜日
ドリアンだかケツァーナだか知らんが、変な命名するなの巻き
二人乗りの男が、首都マニラ圏もマリキナ市にあるプロビデント・ビレッジで、洪水が引いた後に道路に沿って整列した車を、通り過ぎていく。
Two men ride past vehicles lined up along a road after floods receded in Provident Village, Marikina City, Metro Manila yesterday. REUTER
フィリピン、ケツァーナの天罰に苦しむ
熱帯低気圧:ケツァーナによってもたらされた、東部マニラで昨日に発生した洪水の中で立ち往生するフィリピンの人たちを空中から撮影。
少なくとも73人の死者を出したのも、ケツァーナが巾広く地域に打撃を与え、フィリピンの首都で記録的な豪雨を記録したからだ。関係当局は、何千もの人々の救助や救援サービスを急いでいるものの、マニラとその周辺の地方では浸水家屋の屋根の上で人々は一夜を明かすことになった。EPA
Philippines suffers Ketsana's wrath
An aerial view of Filipinos stranded in areas flooded by Tropical Storm Ketsana in eastern Manila yesterday. At least 73 people have been killed as Ketsana battered a wide area, dumping record rainfall on the Philippine capital. Authorities have rushed rescue and relief services to thousands of people who spent the night on the roofs of their submerged homes in Manila and surrounding provinces. EPA
過去四十年間で最悪の被害をフィリピンで出したと言われているらしい。
たったの六時間で、一ヶ月分もの雨量を記録した豪雨が原因で、マニラ首都圏の八割が水に浸かってしまった。
それだけ被害が甚大な台風だと、上に挙げたような、橋の上で立ち往生してしまう報道写真も理解できる。
それに比べて、一番はじめの写真は、いたずら写真のように思えて可笑しかったので、記録しておいたのだが、被害の大きさを考えてしまうと笑う気も起きなくなってしまった。
ただ、マッドネスと言うスカバンドは、発作的に思い出してしまった。
80年代に活躍したイギリスのグループで、メンバー全員がムカデ歩きをしながら、確かホンダ・シティのコマーシャルに出演して、一躍有名になったはずだ。
確かにあの写真は、車のムカデ歩きに違いない。
そんな連想をさせてくれるのである。
それに、今は無き「いすずジェミニ、街の遊撃手」シリーズのコマーシャルも連鎖的に思い出してしまった。
カースタントの一団が一糸も乱れずに、次々に繰り広げる車の曲芸。
写真の構図の面白さだけが、片隅に残っていた記憶をどんどん呼び覚ましえくれる。
被害の深刻さは言うまでも無い。
だが、人間とは不条理なもので、おもしろおかしいイマジネーションばかりが先にたってしまった。
ケツァーナはラオスの木の名前。
それが、台風だったのである。
気象庁のホームページを訪ねたら説明があった。
「北西太平洋または南シナ海で発生する台風防災に関する各国の政府間組織である台風委員会(日本ほか14カ国等が加盟)は,平成12年(2000年)から, 北西太平洋または南シナ海の領域で発生する台風には同領域内で用いられている固有の名前(加盟国などが提案した名前)をつけることになりました。」
加盟国は、台風の呼び名として使ってもらえる名称を決めることができる。
各々十個までが、自由にネーミングできるわけだ。
昔のような、ジェーンとかキティーのような女性の名前をつける習慣はもはや無い。
それでも、数は少ないが、女性の名前は未だに残っている。
13番目 米国 Maria マリア
18番目 香港 Shanshan サンサン (少女の名前)
29番目 カンボディア Kong-rey コンレイ (伝説の少女の名前)
40番目 タイ Wipha ウイパ
46番目 香港 Lingling レンレン (少女の名前)
48番目 ラオス Faxai ファクサイ
51番目 ミクロネシア Mitag ミートク
96番目 タイ Nida ニダ
でも、第一印象で女性の名前としてすぐに連想できる名前は少ない。正直に言うけど、日本人でファクサイが女の子だなんて、誰も思わないはずだ。
このほか、魚、花、木、植物、宝石、神様、地名、人名、鳥、動物、星座とか、命名は千差万別なのである。
名前の付け方は悪くないのだが、北朝鮮のMujigae(ムジゲ)が虹だなんて、やっぱり発音だけで簡単に判別はできない。
日本の気象庁の命名は、星座ばかりを採り上げた。
かじき、くじら、こんぱす、こっぷ、とかげ、それに日本国内はただの番号順で名づけているから、識別だけを狙った無味乾燥な機械的な命名なのだろう。
それで、ネットで色々探してみたら、昔はドリアンという名称が台風にあったのを知った。
タイが名づけたドリアン台風。
うーん、あの特有の臭いだけで、被害にあってしまいそうな名前だ。
でも、今は使われない。
それは、自然災害史に名を残す台風になったからだ。
2006年の11月末、フィリピンを襲った超大型台風は、犠牲者が五百人に達する大規模な被害をもたらした。
忌み嫌うべき名前だろう。
結局、台風委員会の加盟国からの要請があって,その名前を以後の台風に使用しないように変更したのだと思う。
だから、今は代わりに、Mangkhut(マンクート、マンゴスチン、果物の女王)が使われている。
と言うわけで、台風つながりの連想ゲームは、ネットで調べてみて意外と面白い情報の収集ができたのでした。
(この巻き、終り)
おまけ:
2009年12月5日土曜日
また、ちょっと遠出します!!
一泊二日四食付きの交通費込みで三千五百バーツ、今の為替なら一万円しないぐらいの超格安旅行です。川に浮かんだ竹作りの筏の宿泊設備に泊まれたり、滝見にちょっとしたトレッキングをするなど、面白そうなんですが、案内の写真を見ると飯がまずそうな感じもします。ただ、アパートまで送迎してくれるサービスまで付いているのですから、贅沢は言えないでしょう。
この旅行は、例によって日本人が余り通うことの無い白人向け旅行代理店で予約しました。パンフレットとか資料は全部英語なんですが、下手でも仕事で使っているから何とかなると思っています。
ですので、ちょっと更新が空くかもしれませんが、戻ってきたらちゃんと旅行記は書いてみたいと思いますので、楽しみにお待ち下さい。
それでは、明日六時半出発なので寝床に入ることにいたします。
おやすみなさいませ。
2009年12月3日木曜日
今、忘れてはならないことの巻き
「ビルマの民主化運動の活動家は、昨日、ビルマの平和的な抗議活動を武力弾圧した二周年を記念して、東京都心にある国連施設の前で集会を行う中、殺害された日本人ビデオグラファー長井健司氏の写真を掲げている。写真の中には、日本語の文章が読み取れている:"長井健司さん、我々は永遠に恩義を感じます。"」
Burmese pro-democracy activists hold photos of slain Japanese videographer Kenji
Ngaai, as they stage a rally in front of UN building in central Tokyo yesterday to mark the 2nd anniversary of the military crackdown on peaceful protesters in Burma. The Japanese text reads : “Mr. Kenj Nagai, we are forever in your debt."
ミャンマーといえば、「世界最悪の独裁者」の2008年度ランキングにて、第3位に選ばれたタン・シュエ議長が首領様な分けである。
この人は、女房に頭が上がらないらしい。
名前をキャイン・キャイン(Daw Kyaing Kyaing)とか言うらしく、こんな名前はウド鈴木と天野ッチのコンビしか知らん。占い好きもに程があるようで、精霊の神:ナッを熱心に信心している話が、ネットの中でも散見されるのだ。
結婚直後から、「あなたは将来ビルマの最高指導者になるとナッが予言している」という言葉を、旦那に耳元から囁き込んだのは、手練手管だったかどうかは分からない。
そうか、俺には精霊の見方があるのだと信じ切って、一国の支配者に駆け上ったのである。とすれば、奥さんの内助の功が、招かれざる大出世に繋がったと言うことだろう。
後は、権力を掌握すれば、軍政独裁者としての性格を如何無く発揮する。軍人としての六十歳定年は無視され、終身国家元首の地位まで強奪してしまう。為政者として世界最貧国を恥じることも無く、国民を貧苦に押しやったまま、私欲の権化となれ果てて、権力を思うがままに行使し続けて来た。
しかも、占いごとは政治に任せたままで、「首都を移さなければお前は政権の座から転落する」とナッからの指令だと言わんばかりに、ヤンゴンからネピドーへの首都も、即効で移転してしまった。
なんと、ミャンマーは浅はかな国家であろうか。
そんな国に出向き、長井さんは熱心に反政府デモを取材した。ただ、それが最期となってしまったのは真に痛ましい。私服の治安部隊員が発砲した凶弾に倒れた長井さんは、日本国民としても絶対に忘れてはならない。
そして、今改めて、追悼の意を表したいと思います。
(この巻、き終わり)
おまけ:
タンシュエは、国民の貧しい暮らしにはそっちのけで、不細工でも娘の結婚式には莫大な費用を掛ける、悪魔のお父さんのようです。
2009年12月2日水曜日
パリティ予測回路だから、社長業やってんのよの巻き
説明によれば、名前の画数を分析して隠された本性を占うとある。
一文字一文字を厳密に検査・分析することで、名前に強く関連付いている単語を表示するんだそうだ。
これは、面白い。
早速にトライしてみることにした。操作は簡単で、先ず、名前を入力して、Enterキーを押すだけだ。
漢字でもカナでも構わないとある。ならば、自分のハンドルネーム”ぐりぐりももんが”で占ってもらう。
「悦楽」だってさ。
まあ、このネームでブログを楽しんで書いているのだから間違いでは無い。
Yahoo!辞書によれば、”喜びを得て楽しむこと。喜び満足すること。”と説明されているから、了解なのである。
では、自分の本名だったら、どうなるのだろう。
入力した結果は、、、、、
パリティ予測回路って、何を意味するのだろう。
さっぱり分からん。
とりあえず、グーグルでパリティを検索してみた。
ウイキペディアだと、「パリティ (Parity) とは等価性の観念または等価性を維持する機能のこと。 いくつかの異なった定義がある。」とお高くでた。
要するに、合ってるか合って無いのか見極めるための回路=経験力みたいなもんだろう。
であれば、今、働いている会社の経営がちゃんと正常に行われているのか、それを確かめる役割の社長としては、まことに好適な本姓として占ってくれたと言うことだ。
それにしても偶然とは言え、こんなドンピシャの用語で誉めてくれたサイトには、感謝しておきたい。
他の有名人でも占ってみるとするか。
やはりここは、偽装献金の畜生道を突き進み、モラルハザードなど無視の上、円高・デフレを傍観しながら無為無策のまま、鳩山不況に日夜突き進む、亡国の宰相、鳩山由紀夫君の本性をえぐり出して見るとしよう。
あぁー、諦観なのだった。
政権交代だけが目的で、乗っ取ってしまえば日本がどうなろうと庶民の生活は関係ないのだろう。秘書一人をまともにコントロールできない脱税宰相に、絶望の道のみが開かれているのだ。サラリーマンの平均所得が一千万円だと思っている、良家のお坊ちゃまなのだから、国民よ、人生を諦めよう。彼も諦観しているだけなのだから....
ならば、
「宇宙人に誘拐されて金星に行った」、
「私はトム・クルーズが前世で日本人だったと知っている」、
「太陽をちぎって食べている」などと、
奇矯な発言癖で知られた、鳩山 幸夫人は、どうなのだろう。
薬物か....
やっぱり、クスリやってたのか。
割れ鍋に閉じ蓋なのか、はたまた夫唱婦随なのか、
まことにお似合いの夫婦なのかもしれない。
と言うわけで、占いだけを見ますとタイで働いていた方が適切なのかもしれないと悟った、貧乏社長なのでした。
(この巻き、終り)
おまけ:
小沢軍団を束ねる時も、何か殺し文句があったのだろうか。