2010年4月30日金曜日

人をしのぶやり方も千差万別なんだと思うの巻き

命と言うものは、限りがあるのです。

自分も、はや五十年を生きてしまいました。
もう既に、人生の六割以上を過ごしてしまったのです。
鬼界の門をくぐる方が、時間的に残り少ないのだ。
そんなことに気がついてしまいました。

そうやって考えてしまうと、なぜかはかなくなってしまいます。
こうして生きてきて、何かやり遂げたのだろうか。
ちゃらんぽらんに暮らしただけかもしれない。
ちょっぴり、焦りを感じたりもします。

誰か悲しんでくれる人がいるのだろうか。
上さんを残していくのはつらいなー。
葬式なんか要らないよな。
などと、色々に考えてしまいました。

もっとも、こんな思いにふけるのも、年を取ったのかもしれません。

それで、この三月、マレーシアに出張した時のことです。
ホテルでは、毎朝、地元の英字紙を無料で手にしました。
この英字新聞が、「Star」とか名前なんですが、とにかく分厚い。
百ページくらいの分量はありそうです。


朝食の時に、ペラペラとめくってみます。
地元のマレー語では無くて、英語なので読めなくも無い。
でも、ローカル記事は、事情が飲み込めず、さっぱりです。
現地に義理立てする必要も無いから、さっさと読み飛ばしましょう。


おやっ、なんか個人の情報を取り上げたページが出てきました。
大見出しには、”Cherish”とタイトルが掲げられています。
この単語ですが、”(いい思い出などを)胸[心]にしまっておく”と言う動詞ですね。
しかも、個別の記事には、”OBITUARY”の見出しが必ず出ていました。

つまり、新聞に載せるお悔やみの広告だったのが分かりました。
日本の新聞だったら、黒枠で実に地味なものです。
特に関係の無い限り、あまり注意することは無いでしょう。


でも、この新聞欄だけは、思わず見入ってしまいました。
何だか、この広告を載せた人たちの思いが伝わってきたのです。
亡き人を偲ぶ心情が、手に取るように分かる気がしました。
無くなった方には、まだお若い人がいらっしゃいます。
きっと、家族もおありのことでしょう。

と言うわけで、興味もあって後で調べたのですが、欧米ではこのような広告は普通なのが分かりました。
そして、同じアジアの国のマーレシアでも一般的なのです。
日本ではどうして、このようなお悔やみ広告が広まらないのか、とても不思議に思った道産子社長なのでした。
(この巻き、終り)

2010年4月29日木曜日

北海道新聞の長谷川綾を呪い倒すの巻き

今日、久方ぶりに日本大使館へ行ってみました。

前に訪れたのは、タイに赴任してきた二年前のことです。
あの頃は、大使館で発行してもらう書類が、何かと必要でした。
長期滞在ビザとか、労働許可証を取得する事情があったからです。

でも、それも取れてしまいました。
となれば、関わり合いはほとんどありません。

敢えて必要になるときは、パスポートに絡んだ時でしょう。
捺印の台紙を追加してもらうとか、パスポートの更新をする場合ですね。
これは、大事なことです。
ただ、自分の場合、まだ時間も余裕もあります。

ですから、大使館を再訪したのは、別な事情のせいでした。

この間、引っ越して住所も変わっています。
届け出た住所の変更を忘れていました。
それに、七月には日本で参議院選挙も行われます。
是非にも、海外から一票を投じてみたい気になりました。

実は、昨年の衆議院選挙では、このタイから投票しませんでした。
いや、できなかったのです。
在外選挙人登録が簡単にできると思っていたからです。
あの時は、選挙一ヶ月前で、あわてて登録しようとしました。

ところが、手続きに意外と時間の掛かることがネットで判明しました。
投票には、「在外選挙人証」と言う証明書を入手しなければならない。
それが届くまでに、一ヶ月半から二ヶ月を要します。

一ヶ月前の登録では、時間が足りないのだ。
投票日までに、証明書が送付される可能性はありません。
結局、投票できなくては無意味です。
已む無く、前回はあきらめました。

有権者としては、前回の選挙を棄権したことになるのです。
実に、自分自身としては不本意でした。
前回は、自民党に少しでも議席を確保させたかった。

民主党を、策謀的に後押したマスゴミは、実にあくどい。
今思うに、マスゴミは犯罪者か準禁治産者のレベルの徒党だ。
鳩山政権を誕生させた責任は、万死に値するのです。
今の国政の迷走ぶりを見るがよい。
子供手当てにしろ、普天間基地移設の問題にしろ、まともな執政と言えるだろうか。

麻生元首相を、庶民感覚がないと批判した記者もいました。
帝国ホテルのバーで、一杯三千円の水割りを飲んでいたというのです。
これを書いた北海道新聞のキジルシ女性記者は、鳩山首相を知っているのだろうか。
ルーピーは、毎月、千五百万円の子供手当てをもらっていたのだ。
大人になっても、税金の払い方さえ知らない、低脳児ですよ。
それに、入会金百五十万、年会費四十万円近くの会員制レストランに通う人物が、庶民感覚なのですか。



おれは、あの北海道新聞の記者を、絶対に許さない。
今でも、心の中で思い出しては、呪いを念じているくらいです。

だいぶ興奮してしまいました。
話を元に戻しましょう。

 

とにかく、在外選挙人登録は申請してまいりました。
もちろん、次回の選挙は、自民党に投票します。
ネット経済学派出身の三橋貴明候補を支持してみたいのです。
ただ、最近は「みんなの党」も捨てがたい気がしています。
幹事長の江田衆議院議員が、テレビで見る限り、舌鋒鋭く理論的で頼りにしたくなってしまうのです。

と言うわけで、民主党のバカ共には、金輪際投票する気はありません。
外国人に地方参政権を与えようとするなど、国家反逆の悪党以外の何者でもないのだ。
海外に住んできて、本当に日本の行く末を心配するようになった道産子社長なのでした。
(この巻き、終わり)

2010年4月27日火曜日

佐藤克己さんは、堂々と「こども手当て」を申請しようの巻き

佐藤啓吾君といえば、昨年の今頃、マスコミをにぎわしていた寵児だったはずです。
でも、人の噂は75日くらいしか保ちませんから、もう誰も覚えている人はいないでしょう。

簡単におさらいをしておきましょうか。

佐藤啓吾君は、今年十歳になる少年です。
バンコクよりはるか彼方の北にあるピチット県で暮らしています。
お母さんは既に無くなり、おばさんが面倒を見ているのです。
そのお母さんは、一つの遺言を残しました。

「タールアン寺院の本堂で待っていなさい。あなたのお父さんに会えるから。」

どうも、このお寺で、両親は運命的に出会い結ばれたようです。
お父さんの名前は、サトウカツミさん。
ただ、啓吾君の手元には、色あせた一枚の写真が手がかりに残されただけでした。

こうして、啓吾君は来る日も来る日もお寺へ出かけます。
訪れた観光客に、父親の消息を問い合わるためです。
このことが地元でもバンコクでも話題になりました。
新聞やテレビなど、マスコミが報道し始めます。

やがて、そのニュースは、大きな話題となって日本へももたらされました。
その結果、佐藤克己さんは男らしく名乗りを上げました。
やがて、克己さんはバンコクを訪れ、啓吾君と親子の面会ができたのでした。

目出度しめでたし。

ところで、啓吾君はれっきとした日本国籍の所有者です。
父親の克己さんが、啓吾君を自分の戸籍に入れて置きました。
克己さんは、堂々と、我が民主党政権の「子供手当て」を申請しましょう。

初年度の今年は、月1万3千円の支給です。
毎月、四千五百バーツ近くも仕送りできるのです。
ピチット県では、最低日給が151バーツですから、計算すると月給と同じです。
これで、啓吾君は十分な生活費が保障されました。

自分は思うのです。
啓吾君は日本人なのだ。
海外に住んでいるからと言って、手当てを貰うのは当然の権利があるのです。

他方、外国人と養子縁組したからと言って、554人分の子ども手当約八千六百万円(年間)の申請した田分け者がいるのです。
兵庫県尼崎市に住む50歳代とみられる韓国人男性だそうですが、詐欺師以外の何物でも無い。
市から照会を受けた厚生労働省は「支給対象にならない」と判断し、市は受け付けなかったそうですが、なめられたもんです。
妻の母国・タイにある修道院と孤児院の子どもと養子縁組をしていると説明し、タイ政府が発行したという証明書を持参したそうですが、日本人ではない。

どうして、他国の子供を日本人の税金で養育する責任があるのでしょうか。

民主党は、愚かで杜撰な法律を選挙目当てで押し通したのです。
こんな政党は、史上、いまだかつてありません。
再建の目処が立たなくなるほど財政を破綻させる、逆賊、売国奴に違いない。
平然と、将来の国家運営を破滅に追いやろうとしています。

と言うわけで、タイに舞い戻る飛行機の中で、この記事を毎日新聞から読みました。
あきれた韓国人の本性に感動すら覚えたものですが、一方では、佐藤啓吾君のことを思い出してしまいました。
お父さんの克己さんは申請したのでしょうか。
そんなことが気になった道産子社長なのでした。
(この巻き、終り)

YAHOO!ニュースより
<子ども手当>韓国人男性が554人分申請 孤児と養子縁組
(4月24日2時31分配信 毎日新聞)

兵庫県尼崎市に住む50歳代とみられる韓国人男性が、養子縁組したという554人分の子ども手当約8600万円(年間)の申請をするため、同市の窓口を訪れていたことが分かった。市から照会を受けた厚生労働省は「支給対象にならない」と判断し、市は受け付けなかった。インターネット上では大量の子ども手当を申請した例が書き込まれているが、いずれも架空とみられ、同省が数百人単位の一斉申請を確認したのは初めて。【鈴木直】

尼崎市こども家庭支援課の担当者によると、男性は22日昼前に窓口を訪れた。妻の母国・タイにある修道院と孤児院の子どもと養子縁組をしていると説明し、タイ政府が発行したという証明書を持参した。証明書は十数ページに及び、子どもの名前や出生地、生年月日などが1人につき1行ずつ書かれていた。担当者が「養子はどの子ですか」と聞くと「全員です」と答え、男女で計554人と説明したという。

男性には実子が1人いる。子ども手当は月額1人につき1万3000円(10年度)で、計555人分が認められれば、年間8658万円の手当が支給されるが、厚労省子ども手当管理室は「支給はあり得ない」と言う。

今回のようなケースについては、国会審議で野党から問題点として指摘されていた。手当の支給要件は(1)親など養育者が日本国内に居住している(2)子どもを保護・監督し、生活費などを賄っている--の2点だけ。母国に子どもを残してきた外国人にも支給されるうえ、人数制限もなく、機械的な線引きが難しいためだ。こうした盲点を突かれ、ネット上では「100人を養子縁組しても手当はもらえる」といった書き込みや批判が絶えない。同省は今月6日、ホームページに「50人の孤児と養子縁組をした外国人には支給しない」と記したものの、根拠は「社会通念」とあいまいだ。何人以上なら不支給という明確な基準はなく、同様の申請が各地で続発しかねない状況となっている。

尼崎市の男性は、子どもへの送金証明や面会を裏付けるパスポートのコピーなど外国人に求められる書類をそろえており、事前に調べてきた様子がうかがえた。市の担当者は「可能ならもらおうという意欲を感じた」と話している。

2010年4月26日月曜日

桜前線の北上は遅かったの巻き

仙台に降り立ったのは四月の十八日でした。

函館から青函トンネルを抜けて、八戸で新幹線に新幹線に乗り換えました。
そして、仙台のプラットフォームに降り立ったのですが、まだ肌寒い。
かなり南下したはずです。
桜も咲いて暖かくなっていると思ったのに、当てが外れました。

とにかく、北海道は寒かった。
帯広も札幌も函館でも、雪がちらついていました。
まだ、冬の名残りが残ったままです。
もう、四月の中旬ですよ。
東京では、既に桜が散ってしまいました。

それに、北海道の地元テレビ局を見ていてびっくりしました。
桜前線の開花予想が、連休明けなのです。
一番早く開花する函館でも、五月七日らしい。
仙台の桜は咲いたのだろうか。
ちょっと心配になってしまいました。

ところで、仙台には、前の会社で世話になった、道産子つながりの先輩が暮らしています。
今回は、そちらへお邪魔しました。
ストレートに横浜まで帰るのがもったいなかったのです。

休暇が終われば、また四十度の真夏のバンコクへ舞い戻ります。
日本の春の風情を、少しでも楽しんでおきたかった。
それで、わがままだったのですが、ご厄介になりました。

迎えに来てくれた先輩が、仙台はまだ二部咲きだと話してくれます。
そして、わざわざ、青葉城址の公園へ車を運転して回ってくれました。
これで、分かりました。
二部とは、咲いていないのと似たようなものです。
木立の合間から向こうが透けて見えるような寒々しい景色でした。

今年は、異常気象なんだろうか。

実を言いますと、先輩を誘って三春町の滝桜を見に行きたかったのです。
枝垂桜の巨木で、福島県の特別天然記念物です。
花が咲きそろうと滝の流れ落ちるような印象から名づけられたのだと思うのです。

そう滅多に見られることはありませんから、私から切り出しました。
面白そうな提案らしく、先輩も賛成してくれます。
でも、滝桜は山間部に在って、二三日前には雪が降ったくらいです。
きっと、桜の開花は遅れているだろう。
相談の結果、行っても期待はできないだろうと言うことになりました。

そこで、どこか近くに桜の名所は無いか、ネットで探しました。


ありました。
柴田町の船岡城址公園白石川堤が、有名なようです。
後でパンフレットで知ったのですが、日本のさくら名所百選になっています。
しかも、五部咲きを超えたので、満足できると踏みました。

早速、翌日に先輩の運転する車に乗せてもらって出かけました。
高速のインターチェンジ一つ分を下るだけです。.
しかも、小一時間ほどのドライブですみます。
むしろ、駐車場の入り口が込んでいてちょっと時間が掛かりました。

この船岡城址は、町の外れにあって小高い丘になっていました。
五部以上は咲いていたでしょう。
いや、七部くらいまで開花していたのかもしれません。
辺りは、淡い紅を差したように化粧をした桜の園です。


ゆっくりゆっくりと、山頂を目指して歩いて上って見ました。
ケーブルカーに乗ることもできたのですが、二十分待ちはちょっと長い。
体を動かせば、寒さしのぎにもなるでしょう。

途中途中で、白石川の桜並木を見渡せば、まさに絶景です。
うーん、滝桜一本よりは、数で競う美しさでしょう。
まるで、下界は淡いピンクで染まったかのように霞んでいました。
こんな別世界は見たことが無い。



と言うわけで、自分の人生の中で、一番の花見をここ柴田町で満喫することができました。
しかも、白川堤の一目千本桜は、まっこと圧巻なのです。
昔、東京に就職したはずが、仙台勤務になって赴任する車中で見た桜に違いありません。
それは、かつての東北本線の特急「ひばり」で見た再来なのです。
でも、今は、新幹線になってしまい、早く移動する便利さだけが勝り、旅の風情は廃れたものだと、心底かみ締めた貧乏社長なのでした。
(この巻き、終わり)

おまけ:
自分が仙台へ赴任した年の秋に、在来線特急「ひばり」が廃止されています。
ぎりぎりのところで、乗れたようです。

2010年4月25日日曜日

北海道グルメを考えて見たの巻き(その三)

道産子の味を、書き続けている最中です。

帯広、札幌、函館と渡り歩いているせいもあるのでしょう。
思い出の引き出しから、色色なことが飛び出してきます。
そして書いているのですが、筆のほうがどうしても遅い。

すでに東京に戻って来てしまいました。
でも、折角なので最後までがんばって書くことにしましょう。

☆函館の味は、観光地+ご当地の味
札幌から特急「スーパー北斗」に乗って、函館に着いたのは夕方近くでした。

函館には、過去にも何度か行ったことがあります。
でも、最後に訪れたのは、三十年近くも前の話でした。
それは、東京の会社へ就職するのに、途中下車したからです。
物好きな話ですが、飛行機でなくわざわざ列車の旅を選んだのです。

そして、函館を立ち寄るのに、自分にとって大きな意味がありました。

自分は故郷を離れ、内地へ赴かねばなりません。
かの地で勤め人になるのです。
本社は東京だから、職場が北海道にあるわけでもない。
故郷に戻る機会は、かなり限られています。
きっと、内地のどこかで退職して、家があればそこが第二の故郷になる。
きっと、そんな思いがあったのだと思います。

北海道の風景を忘れ無いように、自分の目に焼き付けたかった。
だから、最後に函館へ立ち寄ったのです。
きれいな夜景を、眺めておくことにしました。

一目見て、本当に夜景はきれいでした。
当時も今も変わりません。
今回は、上さんを連れて行きましたが大満足です。


ところが、当時は、夜景を楽しむのが精一杯でした。
食い物までは、手が回らなかったのです。
列車の乗り継ぎで、短い合間を利用したからです。
時間的な余裕も無く、あたふたと函館山を後にしました。

つまり、三十年前は視覚の記憶だけに止まったのです。
味覚の範囲までは及びませんでした。
だから、今回は函館の味覚を楽しむことに決めました。

と言っても、上さんと併せての生来の貧乏性です。
結局は、お題の通りB級グルメで楽しむことになりました。

それで、ご当地ハンバーガーのラッキーピエロに行ってみました。
ホテルからすぐそばの十字街銀座店です。
このチェーン店には、ロックグループ「GLAY」のメンバーも通ったと聞いています。
ミーハーではありませんが、気になりました。
それで、函館の夜景を楽しんでから、ぷらぷら歩いて入ります。

 
 ※ホームページは、ここから

驚きましたね。
店の雰囲気が、サンタクロース一色のデコレーションでした。
まるで、年がら年中メリー・クリスマスの気分になります。
見ているだけで楽しくなってしまいます。

結局、上さんはチャイニーズチキンバーガー(¥350)を、自分は、ラッキーエッグバーガー(¥380)を食べてみました。
いやはや、これはおいしい。
値段に見合う以上の味でした。
お店のちらしを見たんですが、ふるっているんですよ。

「美食家よ、グルメ求道者よ、見逃すな!」ですって、、、

でも、本当においしかったので、花丸をあげたくなりました。
函館近辺に、すでに十四店舗も拡がっているくらいです。
地元の人が足繁く通う、おいしいお店には違いないようです。

と言うわけで、他にも塩味ラーメンで有名な「あじさい」とか、函館朝市のワンコイン海鮮丼とか、食べてはみました。


ですが、やっぱり、ラッキーピエロに止めを刺してみたくなりました。
カニ三昧とかウニ三昧は、札幌でも堪能できるでしょう。
GLAYのメンバーも函館時代に足繁く通ったのです。
そんなエピソードもあってか、ピカ一のご当地グルメだと思った道産子社長なのでした。
(この巻き、終わり)

おまけ:
函館山 (日本三大夜景)~日本三大夜景・世界三大夜景に数えられている100万ドルの夜景。URLはここから

2010年4月22日木曜日

北海道グルメを考えて見たの巻き(その二)

北海道グルメを書いたら、豚丼だけで終わってしまいました。
思い入れが多いから、ついつい書いてしまいます。
でも、こだわりたい食べ物だから書くのですよ。

それでは、その二に続けるといたしましょう。

☆駅弁と言えば「おしゃまんべ」なのだ
父親が国鉄職員でした。

当然、蛙の子は蛙でして、汽車の旅が大好きだったのです。
でも、家族そろって旅行した記憶がほとんどありません。
母親が病弱だったせいもあって、わずかに一度です。

当時は、家族旅行を楽しむなんて家計に余禄もなかった。
親父には申し訳ないですがが、国鉄の給料だったからです。
だから、子供の頃は、安上がりに時刻表を調べて楽しんでいました。
汽車の乗り継ぎをしながら、何時間掛かるとか研究するのです。

既に四十年近く前のことです。
その頃は、北海道でも急行列車が使えました。
縦横無尽に走っていて、上京することも可能です。
安上がりに目的地に到着するには、急行の自由席が一番です。

そして、学生時代は良く貧乏旅行をしていました。
その頃、姉が嫁いで東京近郊に住んでいました。
ですから、よく義兄の住むアパートに押しかけては転がり込んでいました。

札幌を朝の十時五分に出発します。
乗る列車は、急行「ニセコ」です。
函館本線周りで、小樽からはC62の蒸気機関車が牽引しました。
余市、倶知安、ニセコ、黒松内を経て、長万部(おしゃまんべ)に停車します。
お昼のご飯時を少し過ぎていたかもしれません。

八分くらいと長めの停車だから、時間に余裕もありました。
座り続けて硬くなった体も、ほぐしたい。
気分転換も兼ねて運動のため、駅の構内に出ましょう。

「べんとう~、べんとう~」

そうです。
ここは、有名な「かにめし」の駅弁が有名なのです。
もう一つ、「もりそば」も弁当風に箱詰めで売られています。
おなかも空いたことだし売り子さんに声をかけます。


当時、御代は六百円でした。
結構、自分の金銭感覚からは高かったと覚えています。
このかにのちらし寿司なんですが、淡い風味の淡白な味付けです。
自分はこれが、大好きでした。

そんな、懐かしい思い出が自分にはありました。

そして、今、「スーパー北斗」で札幌から函館に特急で移動中です。
車掌の紹介する停車駅の長万部が懐かしい。
思わず、釣られて買ってしまいました。
ただ、違いが一つありました。
添乗員の女性に、前もって予約しなければならないのです。
多分、特急なので停車時間も短いから、売り子さんの販売を止めたのかも知れません。

今回は、「かにめし」と「もりそば」の組み合わせにしました。
上さんと半分ずつ分け合えば、懐かしさも倍増です。
うーん、あの味ですね。
これで、森駅の「いかめし」も食べられたら、最高だと思いました。


と言う分けで、急行ニセコ号から青函連絡船で青森に渡り、零時二分初の急行「八甲田」で東京に向かい、十一時八分に上野駅ホームに降り立つ道産子社長がいるのでした。
あの頃は、手ごろな東京周遊券もあって、よく貧乏旅行をしたものです。
そんな旅の中で駅弁を食べるのは、以外に値が張って贅沢なのでした。
駅弁の思い出は尽きず、この特急列車の中でも、弁当の味をかみ締めてみたのでした。
(この巻き、終わり)

2010年4月19日月曜日

北海道グルメを考えて見たの巻き(その一)

道産子出身が故郷に帰るのです。
郷土の味を堪能したくなるのも当たり前の話でしょう。

しかも、今回は一週間弱の滞在とプチで長い。
帯広(十勝)~札幌(石狩)~函館(渡島)と移動もしました。
それなりに、地域のに味の違いも出るから楽しみは倍増です。

自分の舌に自信があるほどのグルメでもありません。
財布の懐具合も限られています。
限られた予算の中で、舌鼓を打つことにしました。

それで、どんな店に行ったのか、記憶の新鮮な間に書き残します。
ちょっとした防備録みたいなもんです。

☆十勝で豚丼を食べねば、行ったと言うことなかれ
丼ものと言えば、B級グルメの王様です。
しかも、北海道は海産物に恵まれていますから、なかなかに侮れません。
うに丼、イクラ丼、ホタテ丼などなど、素材の良さで真っ向う勝負です。
Bどころか、A級に格上げでしょう。

※”ぶたはげ”の豚丼

でも、この十勝の豚丼は、B級の王道を着実に歩んでいるのです。
はっきり言って、丼ものの横綱だと思うのです。
実は、道産子は伝統的に牛肉を食べません。
すき焼きも、豚すきだし、ステーキと言えば、豚ロースが食卓を飾りました。

自分が牛丼を食べたのは、中学の修学旅行が初めてです。
確か、津軽海峡を青函連絡船で超えて、やっと体験しました。
青森の十和田湖近くの温泉旅館で、食べた昼飯がそうだったと思います。

道産子の開拓農民にとって、牛馬は商売道具なのです。
牛は乳をもたらし、馬は田畑を耕してくれます。
だから、恐れ多くて食用を前提に考えることなどできない。
唯一、豚だけが食べられるために持ち込まれました。
だから、民人は大いに食すのです。

でも、これまでは、このどんぶりは十勝だけの地域限定でした。
北海道でも、他の地方には馴染みがありません。
ところが、東京の放送局がご当地グルメとして、紹介し始めました。
あっと言う間に、豚丼は丼もの界の期待の星です。

このどんぶり、うな重や焼き鳥の甘辛いしょうゆ、みりん、砂糖のたれをベースにしています。
ですから、味的には日本人には親しみやすい。
どこが違うかと言えば、やはり素材です。
ロースの豚肉を使うところが違うのです。

どんぶりに蓋をしたようにたれの塗られた焼肉が盛られています。
その上には、彩りも鮮やかにグリーンピースがちらばめられました。
道産子の好きな白味噌仕立ての味噌汁に、たくあんが二切れと添えられます。

これで、豚丼のフルセットがお出ましですね。

自分にとって、豚丼を初めて食べたのは、もう四十年以上も前の話です。
わずか十歳のときでした。
父親の単身赴任先だった池田町へ、遊びに行って食べたのです。
あの味は、強烈でしたね。

未だに、脳内の記憶が味覚を覚えさせてくれています。
と言うわけで、帯広に住む義理の伯母には、有名な”ぱんちょう”の店が親戚つながりであったのでした。
今回、話をはじめて聞くことができて驚いたのですが、知らずに、上さんと一緒に別の「ぶたはげ」で豚丼を食べてしまい、後悔する道産子社長がいるのでした。
(この巻き、終わり)


2010年4月16日金曜日

JR北海道の列車は、乗り心地が良くなったの巻き

今、帯広から札幌に戻る特急列車の中でタイプをしています。

※雪のちらつく中、芽室駅に到着したスーパーとかち号

札幌までは三時間半ぐらいの道程なので、それほど長いとは思いません。
帯広を出ると、根室本線で新得から石勝線に移ります。
それから、南千歳で千歳線に入って札幌駅に到着です。
この石勝線ができた時期については、はっきりとした記憶が自分にありません。
ですが、四半世紀以上は経ているはずです。

昔は、根室本線を北上して富良野から滝川駅へ向かいました。
そこから、函館本線を経由して札幌へ南下していたのです。
余計に遠回りしていたせいもあるのでしょう。
片道で四時間以上も掛かったのを覚えています。

※帯広~芽室は、ローカル列車に乗ってみた。

しかも、昔は「狩勝」と言う急行列車がありました。
肌色に赤のツートンカラーのディーゼル列車が懐かしい。
席がお見合い形式で、クッションの堅めな四人掛け座席でした。

でも、今はすべて特急列車になってしまいました。

昨日は、南千歳駅から”スーパーおおぞら”に乗りました。
帰りの今日は、”スーパーとかち”です。
特急ですから、指定料金も高い。
ですが、座席がリクライニングなので快適です。
しかも、所要時間がかなり短くなりました。
そのせいで、帯広は札幌からの日帰り出張圏内に入ってしまいました。
おおぞらを使えば、二時間ちょっとで着いてしまいます。

車内の出入り口の上部には、液晶の情報表示パネルもあります。
次の停車駅まで、列車がどれぐらい走ったかを示すイラストが、時折表示されます。
実に、かわいらしい配慮ですね。
それで、停車駅に近づくと案内が出てきます。

「まもなく、追分です。 We will soon make a brief stop at OIWAKE (K15)」

でも、何となく英語が変ですね。
「We will soon stop at OIWAKE.」と簡単に書けば良いのです。
「brief」と言う形容詞で一時停車を強調したかったのかもしれません。
ですが、このような英語表現を目にしたのは、初めてでした。
何となく、日本風英語のように感じました。

と言う分けで、北海道のJR事情もずいぶんと進歩しているのでした。
先頭車の車体側面には、Furico281と描かれています。
振り子方式の車台を使った特急が導入されているのです。
最高時速も130キロぐらいは出ているでしょう。
でも、昔ののんびりした汽車の旅のイメージとは程遠くなりました。
移動は、実に便利になったけれど、ちょっと、旅の風情が薄れて味気なさを感じた道産子社長なのでした。
(この巻き、終わり)

2010年4月14日水曜日

UDDはタイ国体の安定に危険な存在の巻き

ロイター日本支局のカメラマン村本さんが、バンコクでデモ隊撮影中に殉職されました。
遺憾ですが、このことを知ったのは、この直前の記事を投稿した後のことでした。

本当に、ご冥福をお祈りしたいと思います。

 ※バンコクポスト紙より

それで、UDDという反政府活動を行う団体は、実態が極めて過激です。
タクシン元首相を妄信する組織で「反独裁民主戦線」の略称とは言え、ライフルはぶっ放すわ、投擲弾は爆発させるわで、はっきり言って危険な政治団体と言えましょう。
タイは、比較的法律の遵守が緩いとは言え、飛び道具の武器を自由に私有することは許される分けがない。
先行して、国際空港を占拠したPDAなんて、かわいいもんです。

それで、彼が射殺される直前に撮影されたビデオを拝見しました。
ユーチューブのニュース映像がネットで流れています。
おそらく、UDDと治安部隊が銃撃戦を展開した渦中で、流れ弾に当たったのだろうと判断しました。
これは、私の想像する範囲ですが間違いないでしょう。



思うのですが、ご本人はUDDがそれだけ危険なのを判断していなかった可能性が高い。
地元のバンコクっ子だって、彼らの支持者でない限り近づきません。
昨年でしたか、UDDがデモ行動を起こす地区に住んでいる住民が、生活に支障を来たすとして、UDDを非難する抗議活動を行いました。

その時も、UDDは即座に攻撃的性格の牙をむき出しました。
住民と衝突した挙句に、住民側に死者が出たのです。

つまり、分別のない暴徒に過ぎないのです。
坂本さんが政府治安部隊の後ろから付いて行ったとしても、身の安全の保障は無い。
そして、UDD側から発砲され可能性は否定できない。
坂本さんが撮影に使っていたカメラをUDD側が、保管していました。
後からロイター側に返却しましたが、自分たちの不利な映像はきっと消したはずです。

本当に、タイの政治状況は安定しませんね。
現地へ進出した日系企業は、政治経済が安定してくれないと経営もやり切れません。
地元の華僑系中国語新聞では、UDDのことを賎民の暴徒と表現していました。
これに振り回されるようなアピシット政権もしっかりして欲しい。
彼らが支持するタクシン元首相は、クーデターで失脚した上に国外へ逃亡した犯罪者なのです。

なぜなら、タクシン元首相は、職権をして不正蓄財を行った罪で有罪となっています。
しかも、サイドビジネスの実態は、シンガポール華僑を通じたチャイナコネクションだと噂されています。
なぜかと言えば、タクシンの外遊先とした、いの一番に中国が選ばれたからです。
その後のタクシンの息が掛かった後継首相二人も、始めての外遊先に中国を選んでいます。
このように、背後にある政治的な臭いも、非常に胡散臭い。

そんないわく因縁のある人物を担ぎ出すのが、UDDなのです。
非常に危険だと、私は個人的に思っています。
日本のマスメディアは、このようなやからを身びいきしたような描き方をしている。
ですが、バンコクに住む居住者にとっては、はなはだ迷惑以外の何者でもない。
そんな風に思った道産子社長なのでした。
(この巻き、終わり)

2010年4月12日月曜日

日本は最高なんだけど、タイはどうなってるのかの巻き

先週の土曜日に、日本へようやく帰ってきました。

今回は二週間と長期の休暇が取れています。
そんな目的で我が家へ戻ったのは、一年ぶりのことです。
ただ、時々は親会社に呼ばれて、会議で一時帰国はします。
ですが、我が埴生の宿には、ちょっと換気のために立ち寄る程度でした。

住んでいるのは、マンションの集合住宅です。
部屋は、他人に貸さないことにしました。
何時帰っても好いようにしてあります。
早く帰りたいと意思表示をしているようなものです。
ですから、そのまま空き家同然になっています。

それに、マンションは、一軒屋に比べればセキュリティーも高い。
管理人さんも、日中は常駐しています。
だから、変な空き巣が入るようなこともないので安心です。

さて、我が家に帰って手始めにすることは、掃除ですね。
部屋の通気孔を空けたままにしているせいでしょう。
結構、ホコリやチリがたまっています。

ただ、風通しも好いから自然と空気の流れも出来て、かび臭くはならない。
それで、先ず掃除からスタートします。

だが、しかしです。
家の中は、電気・水道・ガスをしっかり止めてしまいました。
このため、どうしても不便を承知の上で、生活せねばなりません。

電気がないから、照明は懐中電灯かろうそくを灯す。
水道は、どう言うわけだか元栓が止められていなので、ばれないように小出しに使う。
ガスは、しっかり元栓が締められている。
だから、カセットコンロでお湯を沸かすしかない。
そうなると、お風呂も入れません。
沸かした湯に水を足してぬるま湯を作り、それで水浴びするしかないのです。

つまり、まるで縄文時代に戻ったかのように原始生活を営むしかない分けです。

それに、テレビが見られない。
かろうじてつながるメディアといえば、近所で買ってくる新聞か、電池式ラジオですね。
そんなところから、ニュースを読んだり聞いたりするしかない。
本当に一過性の情報弱者になってしまいました。

そう言えば、バンコクでは反政府活動で死者を出す騒ぎあったみたいですね。
自分たちはその前に出国していたから、ラッキーだったと思います。
11日の日曜日、国外逃亡犯のタクシン元首相を支持する狂信的な赤シャツ団が、治安部隊と衝突しました。
とうとう、やったかと思いましたが、死者21人なら被害は想定の範囲内だろうと感じました。

アピシット政権も馬鹿じゃないですよ。
この程度の死亡者数であれば、国際世論から非難を受けずに住むと想定の範囲内だったはずです。
死者が五十から百人を超えれば、ちょっと数的に問題になりましょう。
それに、相手に犠牲をもたらして厭戦気分を起こさせる程度の数は、必要だったかもしれない。
正直、実に微妙な犠牲者の数だとは思いました。

でも、UDDこと赤シャツ団は、あくまでもアピシット政権の退陣と総選挙を求め続けるようです。
でも、もうちょっとの辛抱なのだ。
田植えのシーズンさえ始まれば、デモの主戦力のお百姓さんたちは故郷へ帰る必要がある。
デモ参加の日当五百バーツもおいしいだろうけど、本業は捨てるわけに行かない。

と言うわけで、デモ隊の指導者は「話し合いのときは終わった。人殺しとは交渉できない」と、デモ継続を強調しています。
でも、あんたらの資金源は、どうせ、逃亡犯でお金持ちの”とがびと”から出ているんだろう。
しかも、その家族や子供は、難を逃れて国外へ出国するような始末だ。
あんたたちは、駒として使われているのに過ぎないのが分からないのかい。
観光業界・流通業界の人たちが、ルンピニ公園で反対運動を展開してぶつかったように、忌み嫌う人々も多いことに気が付くべきだと主張したい道産子社長なのでした。
(この巻き、終わり)

2010年4月9日金曜日

一時帰国前に、ミャンマーで思ったことの巻き

明日から、待望のソンクラン休暇が始まります。
これで、やっと日本へ帰還できることになります。
いやー、この暑い時期はタイを避けて、日本へ帰って疲れを取るのが一番良いのです。

何せ、ミャンマー出張から帰って熱中症でダウンしてしまいました。
翌日は会社へも出られず、近所のサミティベート病院で点滴を打ってもらう始末です。
かの地もご多分に漏れず、乾季の最中ですから、くそ暑いのなんのって、例えようもありません。

しかも、冷房装置がどこへ行っても役に立っていないのです。
客先回りをすれば、オフィスの中はひんやりともせず、じっとり汗がにじみます。
一方、移動中の車の中でも、エアコンの効きはお情け程度です。
座席にもたれかかっていて、背中一面が汗びっしょりになりました。

それで、ミャンマーの人たちは、あまり気にしていないみたいでした。
結構、平気なんです。

それに比べると、タイの人はギンギンに冷房を効かせるのが大好きです。
かなり、浪費癖がついているのかもしれません。

そこで、ミャンマーを見て思ったことが一つありました。
実際に、両国の間には、かなりの経済格差が付いてしまっています。
一人当たりのGDPを見ても、ミャンマーはタイの数分の一です。

おそらく、ミャンマーの人は、冷房できるほどのゆとりが無いのだろう感じたのです。
それは、日中、ヤンゴンの市内で時間をすごしてみるとすぐ分かります。
日に何度も、軽い停電が起きるのです。
電力の復旧は早いのですが、これだけ安定しなければ、冷房も気軽に掛けられないと感じました。

それに、ガソリンやディーゼルの燃料も、ついこの間までは配給制だったと聞きました。
最近は、自由化されて来ているようですが、それでも、庶民は燃料を貴重なものとして扱っているはずです。
だから、エアコンなんか点ければ、燃費が悪くなるだけでのことでしょう。

これは、ある意味、ミャンマーの人は自然な天候・気温に付き合っていると言うことです。

こんな時期の暑さは耐え切れない。
だから、地元の人は、新年を祝う水掛祭りで、お互いに世代に水を掛け合って、涼むのではないでしょうか。
そうでもしなければ、この暑さは凌げないはずです。
だから、祭りをするんだなーと、本当にミャンマーで実感してしまいました。

と言うわけで、年に一度の水掛け祭りは、ミャンマーではタイ以上に盛大なのです。
この時期、市内のショッピングセンターでは、お祭り用ミュージックビデオのCDが売られていました。
買って帰って、そのVCDを見ると、歌の合間合間で、水をしっかり掛け合っています。
そんなところに面白さを感じた道産子社長なのでした。



(この巻き、終り)

座席指定も取り消しも海外からやってみたの巻き

インターネットって便利なもんです。

日本へ一時帰国する時は、必ずお世話になっています。
国内線の航空券やホテルの部屋はネットで先に予約しておくのです。
郷里の北海道へは、欠かさず帰省します。
年に一度の墓参りだけはしないと、鬼籍に入った両親には親不幸になりましょう。

でも、休暇の期間にも限りがあります。
先に予約で押さえない限り、希望の日時なんか取れる分けありません。
でも、こちらはタイで外国なのです。

だから、ネットで日本のトラベルサイトをこつこつ探しては、ブッキングします。
今まで使ったのは、楽天トラベルとか、ベストリザーブとか、結構有名なサイトを利用しました。
クレジットカードさえあれば、それで決済できて便利です。

それで、今年も一時帰国の季節が巡って来ました。
来月のソンクラン休暇に併せて北帰行します。
色々とプライベートで用事を済ませておきたい。
ですので、会社に断って二週間を取りました。

でも、期間が長すぎるとかぶつくさ文句を言われてしまいました。
そんなことはない。
こちらは、年間の就業日数が、日本より十日も長いのだ。
だから二週間ぐらいの休みを取ったって、別におかしくも何とも無い。
大体、休みの日数を足せば、帳尻が日本と符号するはずです。

さて、出発日は大体決めたことだし、後は国内移動が問題です。
北海道は、普段は札幌へ先ず帰りますが、今年は先に帯広まで足を伸します。
昨年、伯父が逝去しました。
残念ですが、タイからでは葬儀に参列することも適わなかった。
今年は、ぜひに線香を上げに行かねばなりません
そして、できれば仙台の知人も訪ねてみたい。

それで、色々とどんな交通手段を使うか検討してみました。

結局、初めの片道は、千歳空港まで飛行機にしました。
スカイマークの一人9800円の運賃は驚きです。
次に、帯広までJRの乗り換えになります。
後は、JRを乗り継いで南下しながら、札幌、函館、仙台と内地までご帰還です。
途中途中で立ち寄りしますので、汽車の旅が便利でしょう。

最初は、全部の路程をJRで乗りこなそうとしました
横浜から帯広までは約1350キロの路線距離です。
しかも、片道運賃は一万五千円ちょっとで、八日間の有効期間と長い。
ゆっくり汽車の旅も良いかなと思いました。
ですが、限られた期間ですから、そう悠長なことも言ってられません。
結局、往路の帯広までの移動を飛行機に切り替えました。

でも、日本全国のJR切符が海外から予約できるなんて、驚きでした。


難点は、JR東日本管内の窓口でしか切符が受け取れません。
ですので、関西などに住む方は、どこで切符を受け取るか問題になりますね。
とにかく、成田空港行きを選ぶことです。
降りたら、まず空港駅のみどりの窓口で切符を購入しましょう。
それから、東京から新幹線で目的地まで戻るのが無難のかもしれません。

と言うわけで、国内は良かったのですが、帰国便が思うように予約できませんでした。
ソンクラン休み始めの4月9日の混雑はひどいものです。
二ヵ月以上前から予約を入れて、どの便も満席状態でキャンセル待ちです。
やっと、翌十日で出発時間が非常に不便なデルタ(昔はノースウエスト)だけが押さえらました。
なんとか日本に帰られます。
後は、国内で、おいしい駅弁に舌鼓でも打って、鉄道の旅を満喫しようと、ワクワク気分の道産子社長が、そこにいるのでした。
(この巻き、終わり)

おまけ:
①この記事を書いた後、何と出発三日前に、時間的に都合の良いタイ国際航空の帰国・出国便が取れました。キャンセル待ちの待機順位が、かなり上位に合ったせいでしょう。

②JRーEASTのえきネット予約は、便利には違いありません。
ですが、登録がややこしかったり、JR用語が使われていて分かりにくいのです。
例えば、予約のキャンセルは、”払い戻し”を選択するのです。



ネットでは、チケットを実際に受取った後で、カード決済が行われますから、その前に”払い戻す”処理をするなん矛盾しています。
それで、お客さま相談へ電話して聞いてみました。
答えは、キャンセル料金を引き落とす工程が入るので、昔からのみどりの窓口でのやり取りになぞらえて、そのまま用語を使っているとのことでした。

2010年4月8日木曜日

お仕事でミャンマーへお出かけ中だったの巻き

今、タイの隣国、ミャンマーを目指しております。

スワンナプーム空港を発ったのが、朝の八時ちょっと前で、十時前には着く予定です。
タイの国内線なら、チェンマイへ飛ぶ程度の時間しかなく、意外と距離が近いのです。
それに、時差が、三十分と半端に遅れるところが面白い。
空港に到着したら、腕時計だけは合わせるようにするつもりです。

乗り込んだタイ航空TG303便は、エアバスA300-600型の機材を使っていました。
座席数は三百席近くありますので、中型機です。
航続距離も七千五百キロで、近距離国際線を中心に就航しているタイプです。


でも、搭乗率は多くないようでした。
暇だったので、目の子算でざっと数えて見ました。
ざっと六七割ぐらいしか席が埋まっていないようです。
まあ、日曜の朝の便ですからゆっくりと出発したいのかも知れませんね。

それで、面白かったのが、搭乗開始なんです。
国際線なら、普通はパイロンから直接に乗り込みますよね。
でも、この便は、バスで移動する必要があるのです。
出発ゲートはDサイトなっていて、バス移動専用ゲートでした。

この間のマレーシア出張も、ここを使いました。
スワンナプーム国際空港は、元々、国際的なハブ空港として開発されたはずです。
国際空港なら、利便性を考えてパイロンの乗降が第一です。
ところが、近距離の国際線は、使われないようです。
ユーチューブの動画でも、シンガポール行きバス乗降でした。


それで、ミャンマーはたったの二日間の強行出張だったのですよ。

日曜日に出発して、月曜日の夜行便で帰って来るハードな旅程でした。
かなりしんどくて、かえって来た翌日には、熱中症でダウンです。
あわてて病院で駆け込んで、点滴を打ったもらう羽目になりました。

それでも、客先の営業施設を見学できたたり、受注を確約できたり、すぐに見積もり依頼をされたりなど、なかなか成果のある出張でした。

と言うわけで、現地の代理店へ何もお土産を持参しなくて申し訳ないと正直に謝ったら、ミャンマーを訪問してもらえること以外に何があろうかと、過分な答えが返ってきました。彼らも、我々を本当に待ち望んでいたのです。

これが分かったので、うれしく思いました。

やはり、これまでは、政治状況があまり芳しくなかったせいもあります。
このため、訪問を差し控えていたのですが、今回の出張で改めてお客さんの大事さに気が付いた、道産子社長なのでした.
(この巻き、終わり)

おまけ:
この記事は、飛行機の中で始めは書き出しました。
ですが、一時間のフライトでは書き上げられなかった。
それで、家に戻ってから加筆して仕上げてみました。

2010年4月6日火曜日

近くて遠い国とは、このことなのかの巻き

今日、ミャンマー大使館へ出かけてきました。


実は来月、商用もあって出張するのです。
隣国なので、ラオスみたいに簡単に入国できるかと思いました。
ところが、かの国は鎖国状態が続いていて、ビザが必要なのが分かりました。

所定の用紙に書き込んで、大使館まで出かけて申請しなくてはなりません。
面倒なことです。
ですが、同行して下さる取引先の商社さんが、代行を申し出てくれました。
助かりました。
それで、自分の写真だけは用意して手渡した上でご厄介になりました。

でも、本人が申請窓口へ出頭しない限り、ビザは出さないと横柄なのです。

鳴く子と地頭には勝てませんから、出向くことにしました。
何かあると行けないから、代書してくれた担当者の方も同行します。
近くて遠い国とは、このことでしょう。
随分と意地悪な話では、ありませんか。

もともと、ミャンマーとタイは、歴史的に不仲です。

かつて、タイのアユタヤ王朝も、当時のビルマ軍の侵攻を受けました。
自分も、宰相まで上り詰めた日本人の”山田長政”を知っていて、親近感があります。
しかし、王朝の首都は、あっけなく陥落しました。
仏像は首を跳ねられ、黄金など貴金属は溶かされたのです。
暴虐の挙げ句に、延べ棒に変わり果て持ち運び去られています。

こんないわくがあるから、感情としても犬猿の仲には違いありません。

話は現代に至っても続きます。
四半世紀前、カレン民族六万人がミャンマーからタイに難を逃れました。
反政府独立運動もあって、政府軍から激しい攻撃を受けたのです。
民族は離れ離れになり、タイで住む人々は難民の扱いを受けています。

随分と、両国の関係は複雑なようです。

ビザ申請の受付でも、窓口では絶対にタイ語を話しません。
理解を拒絶します。
代わりに英語ならば、やり取りをしてくれます。
かつての宗主国で、植民地にされたとは言え、世界の公用語は絶対なのでした。

しかも、費用を払ってもお釣を渡しません。
無いと言うのです。
例えば、マルチビザの代金は、1240バーツと切りの良い数字ではありません。
千バーツに五百バーツの紙幣で払ってしまえば、二百六十バーツは喜捨になる分けです。
どなたが潤うのか知れませんが、その場でルールが作られるのでした。

そんなかんだで、とにかくビザは下りました。
二日後に取りに来るように言われてホッとしました。
ですから、取れてしまえば勝てば官軍なので、これを書いています。

やはり民主化までの道のりは長いのでしょうか。
あの、銃弾に倒れたAFP通信の長井記者のビデオ映像は、未だに脳裏に焼き付いて離れません。
首をはらい、貴金属だけを持ち去った仏徒の心根はいかようなものでしょうか。


と言うわけで、お隣だからと言って、決して同じような気質の人々だとは言えないのかもしれません。そんなことを、この作業を通じて感じた、道産子社長なのでした。
(この巻き、終わり)

おまけ:
この記事は、既に3月中旬に書き上げておりましたが、出張前だと差し障りを感じましたので、公開を控えました。ようやく、この4月4~5日でミャンマー出張を果たしましたので、記事をアップします。

2010年4月3日土曜日

花見は続くよ、どこまでもの巻き

日本の花見といえば、桜ですよ。

※お花見特集2010、MAPPLE観光ガイドより

桜前線が、急ピッチで日本列島を北上しています。
今年は、例年より十日も早く開花し始めたようです。
九州ですと、三月中旬から咲き出して、もう散り始めています。

それに比べると緯度が北の方は、まだこれからですね。
自分の住処だった横浜だと、満開まではもう少し時間がありそうです。
今月の十日に帰国しますから、散らずに残っていて欲しい。
そんな気分です。

昨年は、帰国して根岸の森林公園へ出かけました。
山一面が、ピンク色に染まり花盛りです。
こんな美しい桜の景色を見たのは、自分の生涯で後にも先にもこれが初めてでした。

 (ブログバナーの写真で使いました。)

それで、所変われば品変わるです。
タイは、くそ暑いですねー。
嫌気が差すほどの炎暑、酷暑だ。
温度計の水銀柱も、必ず35度を上回るようになってしまいました。
だから、今こそは旬の夏なのです。
日本なら、冷麦、カキ氷が定番になっているでしょう。

でも、タイはちょっと違うのです。
ばらばらな季節感が、カオスで存在しています。
この時期、まだサクラモドキが咲いているんですよ。

その名は、「ชมพูพันธุ์ทิพย์ (チョムプー・パンティップ)」です。
実は、この花は一月の頃から咲き出していました。
ひょっとしたら、早咲きがあるのかもしれません。
なぜなら、エンポリアムデパート隣のベンチャリ公園へすでに花見をしています。

一月末のことでしたから、はや二ヶ月以上が過ぎています。
そして、ベランダからすぐ目の前の小高い木は、実にきれいだ。
今が満開とばかりに咲き誇っています。
あの可憐なピンクの花が、さくらのように満開なんです。


でも、暑いなー。
炎天下の中、容赦なく直射日光が照りつけてくる。
でも、健気に咲いている感じがしてしょうがない。
日本のサクラみたいに感情移入しているのかもしれません。

と言うわけで、新居に移ってからベランダ越しに、毎日花見が出来るとは思ってもみませんでした。それにしても、この一月末から場所場所で、開花の時期があまりにも違うなんて、ちょっと不思議です。ひょっとして花の種類が違うのかもしれない、知っている人がいたら、誰か教えてもらいたいと思う、道産子社長なのでした。
(この巻き、終り)

2010年4月2日金曜日

グーグルは、あなたの実力を判断し、未来をも占うの巻き

キム・ヨナさんは、韓国の女子フィギュアスケート選手です。
ついこの間のバンクーバー・冬季オリンピックで金メダルをゲットしました。
日本の浅田真央選手を抑えて、栄冠に輝いたのですから、さすがと言ってあげましょう。

でも、インターネットで色々な記事を読んでみました。
調べて見る限り、八百長の部分はあるみたいです。
グーグルで検索してみれば、すぐ分かるのですよ。

先ず、「キムヨナ」とタイプしてみましょう。
グーグルさんの検索エンジンは人智を尽くしたものと言ってよい。
この言葉に続けて、入力が連想される言葉を探り出して、的確に列挙してくれます。


キムヨナ 不正
キムヨナ 八百長
キムヨナ 不正採点
キムヨナ 八百長疑惑

これぐらいの言葉が出るようだと、後味の悪い不快な人物になっているようです。
華麗なフィギュアスケートも、ここまで来ると、メダルを取る目的の道具にしか過ぎないのでしょう。
それに、別に日本語だけに限った分けでも無いのです。
欧米の人だって、人物に胡散臭さを嗅ぎ取っている人は沢山います。


yuna kim unfiar (不正)
yuna kim is hated by other figure skaters (他のフィギュア選手に嫌われている)
yuna kim cheat (いかさま)
yuna kim unfair judge (不正審判)
yuna kim bought gold medal (金メダルを買った)
yuna kim (審判、不正)

ものすごいですねー。
オリンピックも金メダリストも地に堕ちたもんです。
要するに、話は簡単です。

この競技は、他人の評価次第です。
審判が、滑りの出来に点数をつけて、優劣を付けます。
ですから、勝ちたければ金でたらしこんでおけばよいだけだ。
いざとなれば、ルールも金で変えてしまえば、磐石になるだろう。

こうして、彼女は念願の金メダルを取ったのでした。

でも、まだ彼女は二十歳前ですよ。
あと半世紀以上も、彼女は生きて行かねばならない。
汚い烙印と代償を、払拭することができるのでしょうか。

噂では、広告代理店の電通が後押ししていたと言います。
引退後は、プロフィギュアスケーターに転進するはずです。
さすれば、日本の市場を足場に働きたかったのでしょう。
韓国は五千万人程度だから、魅力は薄い。
先ずは欧米に出る前に、日本を踏み台にしたかったのだと思います。

しかし、日本国民もそんなにお人好しじゃありません。

不正やいかさまが、浅田選手を抑えつける手口だったのは明白でしょう。
どう見ても、真央ちゃんが美しく滑走していました。
審判団による競技採点の付け方も、呆れて物が言えないくらいでした。

だから、日本国民は彼女をこれ以上、相手にしないでしょう。
無視し、忌み嫌うだけだ。
人間として、最悪の女性ではないでしょうか。
もし、取り巻き連中が彼女を作り上げた結果がそうなっただけで、彼女に責任が無いと言いたいのなら、言いたければ良い。

単に世界の嫌われ者になると言うことだけです。
そして、これほど不埒な国家と民族ほど、無いのではないでしょうか。

と言うわけで、韓国で彼女が出た番組のダイジェストを見て驚きました。

※詳しくはここから、

浅田選手のスケーティングの最中、顔にはアントニオ猪木さんの顔が、編集で貼り付けられていたのです。
無礼にも程がある。
そして、真央ちゃんの世界選手権金メダルこそが、本当の実力と評価に違いないと思った道産子社長なのでした。
(この巻き、終り)