2009年6月17日水曜日

サーバーが動かんようなので試し打ち中...戻ったべや!

とほほの状態に陥ってしまった。
ブログのサーバーが反応してくれん。
こうして、投稿だけはできるんじゃが、自分のブログURLからアクセスするとサーバーが反応していないと表示されてしまう。

サーバへの接続 gurigurimomonga.blogspot.com 失敗しました (サーバは応答していません。.)

と言う訳で、何か対処する必要があるので、試し打ちで投稿を追加したら何とか復帰するのではないかと思って、やっております。では、、、、

あの手この手で、やってみたら復帰したようじゃ。
何が原因だか分からんが、動きましたのでブログを再開いたします。

2009年6月16日火曜日

老檛国...(シンプルなタイトルには分けありの巻き)


国境の長い橋を抜けるとラオの国であった。右側が通行になった。検問所にバスが止まった。
待ちかねたように人々が集まって来て、島村の席の下の荷物室の扉を開けた。暑い喧騒が流れこんだ。娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ叫ぶように、
「人夫さん、人夫さん。」
荷物を引き出しにゆっくり向かって来た男は、クビに巻いたタオルで汗をぬぐい、麦わら帽子のつばを掴み上げた。
もう渡ったのかと島村は雑踏を眺めると、検問の官舎らしい連なりが行く手を待ち構えているだけで、ムッとする熱気はそこまで行かぬうちに体にまとわり付いた。


どうも、貧乏社長は文豪には成れそうもない。川端康成の「雪国」をパクッて見たんだが、お分かりになっただろうか。

貧乏社長は、この間の6月10日から11日、たったの二日間だけ、急ぎ足の旅でラオスを訪ねた。当社は、これでも多国籍企業なのだ。ラオスのビエンチャンには、メンテナンスの面倒を見る子会社がある。社長になって、これまで一度も視察せずに来たので、是非訪問したいと考えて来た。

お客さんのガソリンスタンドも4百ヵ所以上になったと、その繁盛ぶりを人づてに聞いている。会社を作って以来、黒字へ浮上するのにちょっと遠回りしているから、この目でしかとお国振りを確かめてみたい。そうすれば、その土地での新しい事業の展開も考え付くだろう。

居ても立ってもいられなくなった。

そうだ、半年毎の資機材の棚卸しがまもなく始まる。地方の出先支店でも実施するから、東北地方のコン・ケーン事務所の視察・激励に併せて、ラオスまで足を伸ばすとしよう。

善は急げで、担当者に連れて行ってもらうことにした。
先ずは、タイ東北部の地方主要都市、ウドンタニまで飛行機で飛んでから、ナーンカイの国境検問所まで、陸路で白タクに乗り込みぶっ飛ばす。

検問所は無事に通り抜けた。乗車賃60バーツを払って国境を越えるバスに乗り込むと、程なくして濁った河水のメコン河が見えて来る。


実際に橋を渡った時間は、一二分くらいのもんだったろう。

懐かしい、どこかで見た川面の風景だ。どこかで見ていたはずだ。どこだろう。
貧乏社長は、記憶の片隅に置き忘れた風景を必至で思い出そうとした。あの泥色のゆったりとした流れ、そうだ、あれこそ石狩川の河口付近に瓜二つなのだ。生まれ育った北海道で、おおらかに蛇行を繰り返し、ところに三日月湖を残しながら悠久の時を流れ続けて、日本海に注ぎ込む。ふと記憶の中に、鮮やかな土気色の流れが蘇ってくる。


でも、こちらはメコン河なのだ。

チベット高原に源流を発し、中国雲南省を通り、ミャンマー・タイ・ラオスの黄金の三角地帯から、タイ・ラオス国境線を伝い、カンボジアからベトナムに抜けて行く。大河は、四千キロ以上もの距離を滔々と流れる。しかも、この川幅がありながら、河口までは半分を残しているのがすごい。

対照的に、石狩川は二百数十キロの長さしかない。これでも日本で三本の指に入ると言う。日本の河川はちっぽけで箱庭みたいなもんだと、貧乏社長は笑ってしまう。

でも、どこか懐かしさを覚えずにはいられない。
やっぱり、同じアジアの国だからだろうか。
そんな気分に浸りながら、国境の橋を通り抜ける貧乏社長なのでありました。
(この巻き、終わり)

おまけ:川端康成の原文は次の通りです。良かったら、比較してみてください。
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。
 向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落した。雪の冷気が流れこんだ。娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ叫ぶように、
「駅長さあん、駅長さあん。」
 明りをさげてゆっくり雪を踏んで来た男は、襟巻で鼻の上まで包み、耳に帽子の毛皮を垂れていた。
 もうそんな寒さかと島村は外を眺めると、鉄道の官舎らしいバラックが山裾に寒々と散らばっているだけで、雪の色はそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた。

2009年6月13日土曜日

道産子は、”エッタ”で鬼ごっごをするの巻き

貧乏社長がガキだった時分と言えば、もう半世紀近くも昔の話になる。

当時の子供の遊びや生活は、とても単純でンプルだったと思う。
当時は、画面に色の付かない白黒テレビが茶の間にあって、鉄腕アトムとか鉄人28号とかテレビアニメを友達と一緒に見ることもあった。だが、それは邪道だ。
やはり、おいら達の遊びの本領は、小学校が終わった放課後から繰り広げられる、外での遊びだったと思う。缶けり、ポコペン、だるまさんが転んだ、はないちもんめとかいろいろその日その日で取っ換え引っ換えして遊んでいた。

特に、鬼ごっこもそうだったが、貧乏社長が暮らしていた北海道には、風変わりな言葉使いがあって未だに忘れられない。

それは、鬼が逃げまわる子を捕まえたときに、”エッタ”と叫ぶのである。何ゆえ、”エッタ”と言うのか今もって分からない。子供だから、年長の遊び仲間から口伝えに覚えて来たと思うんだが、大人になってからも不思議に記憶に残ったままだ。

”エッタ”って、どんな意味があるのだろう。今だったら、バタ臭くタッチとか言うんじゃないだろうか、これって北海道弁なんだろうか。

またぞろ、好奇心の塊みたいな貧乏社長の探求心に火が付いた。早速、グーグルで検索を開始する。”エッタ”と入力してトップに出たのは、ネット百科辞典のウイキペディアだった。
面白いのは、おせっかいなグーグル機能だ。検索用語の、複数キーワードの関連付けで検索上位に並べられた、検索例を紹介している。


はっきり言って、余り良い言葉ではないらしい。むしろ、差別用語と理解した。

この階級的な差別は、開拓が始まって百五十年にしかならない北海道には、存在しないものだ。むしろ、差別があったとしたら和人とアイヌ人の間だけであったのだろう。内地(本州)から開拓で移り住んだ人々は、渡ってから北海道で戸籍を作り直した人が多い。

貧乏社長の爺さんも、次男坊のせいで家督を継げずに、閉塞的な環境から抜け出すつもりで、新潟は長岡からこの北海道に渡ってきた。祖父さんが置いた本籍は、俳優の高倉健主演の名作映画「網走番外地」の網走監獄に程近い呼人(よびと)と言う辺鄙で殺風景な場所にある。
だから、北海道の人は、皆がかの土地で新しい人生を作り出そうとした人たちなのだと思っている。このためには、新しい戸籍も本籍地も自分なりに創生すれば良かった訳だ。単純な考えかもしれないが、穢多だか非人だか分からんような差別を受けるぐらいだったら、北海道へ来れば良かったのもしれない。

ただ、自由を勝ち得た代償は大きい。

移り住んだ人々は、取り合えず雨風をしのぐ仮住まいをすぐに作らねばならなかっただろう。札幌の北海道開拓の村にある、当時を再現した”開拓小屋”を見ても、質素以外に言葉が見つからない。笹や茅(かや)で屋根や壁を葺き、出入り口・窓にはむしろが垂れ下がっただけの原始的な粗末な掘っ立て小屋、入り口には扉もなくムシロが垂れ下がっている。
こんなわび住まいを拠点にして、手にした未開の原野を開墾しなければならなかったのだ。これは、言葉に尽くせない労苦を重ねたはずだ。経験した事の無い、北国の寒冷な気候が特に冬場では耐え難い苦痛となっただろう。余りの生活苦で一家離散してしまった家族もあるかもしれない。

そうやって、北海道人は生きてきた。

そして思う。何ゆえ、その人々はその地を離れられなかったのだろうと。
多分、自由を選ぶことよりも、そこで手にしていた日々の糧が、道産子達の創世よりまだ安定していたのかもしれない。外界との接触を避けて、その社会の中で肩を寄せ合い、助け合えれば暮らしていけたのだろう。他にも理由はあるかもしれない。

比べれば、あの頃の北海道にとっては差別のやりようも無かったのだ。

自由な北海道に生まれて良かったと貧乏社長は、自分の家系に感謝している。因習やしがらみが一切無く、自由に自分の人生を選んで好きなように生きていける。こんな土性骨が道産子にあるから、何時でもどこでも、そしてこのタイにおいても、飛躍できる能力を発揮できるのだと改めて感じ入った。

大分、寄り道をしてしまった。
”エッタ”の語源探しが終わっていない。

ネットで色々調べるだけ当たってみたが、語源はハッキリしなかった。
”獲った”と漢字で書く場合もあるし、鬼ごっこの鬼を英語で”it(イット)”と言うのでそれがなまって転用されたとか、はたまた、ロシア語の「エータ(これ)」から来たとか、諸説紛々なのである。はっきり言っておくが、北海道ではこの言葉に差別の意味が無い。道産子の子供達が使う純真無垢な言霊には、忌まわしい意味など微塵も無いのである。

こうして、貧乏社長はたった一つの北海道弁で、自分の郷里を思い返しながら、鬼ごっこに何も罪は無いんだよと呟いたのでありました。(この巻き、終わり)

おまけ1
用語として、差別と区別の意図的なスリ替えを認める時期に来ている。ご都合で悪いことに対しては、すべて差別と主張すべきでは無い。
以前、関西の方では○○○○同盟の支部長をしながら、病気を理由に5年9ヶ月もの間に休暇32 回、休職2回を取り、その間に市との団体交渉に出席し、給料を満額もらいながら、僅か8日しか勤務しなかった極悪な地方公務員がいたことを、忘れてはならない。差別でビジネスを創造できるのだろう。

おまけ2:
親父も仕事の関係で札幌へ引越してからは、戸籍謄本を取り寄せるのにいちいち網走の市役所へ頼むのが面倒くさくなったらしい。終いには、札幌の自宅に本籍を変えてしまった。その内、貧乏社長も上さんとの国際結婚が複雑だったので、手続き上、横浜に本籍を移してしまいました。我が家系は、北海道から内地(本州)へ捲土重来した感じもいたします。

おまけ3
アイヌの人たちは、遺伝学的に見ても日本人と同じ特質を持っていて、縄文人系なんだそうだ。つまり、日本人なのである。とは言っても、北海道の気候が厳しくて農耕も出来ないし、狩猟・採集中心の生活だったから、生活習慣・文化・言語で内地の和人に大きな隔たりが出来てしまったんだろうと思う。少なくとも、貧乏社長が北海道を出るまでアイヌの人を差別したことも見たことも個人的にありません。断言いたします。

2009年6月7日日曜日

ブログを始めて一年が経っての巻き

ブログを書き出してから、自分に変化が起きたかと自問するなら、大いにあったと思う。

先ず、文章を書くのも早くなったし、巧くなったようだ。そして、書きたい内容をどんな風に書くか、あまり話の展開を意識せずに書き上げてしまうことが、多くなった。

初めの頃は、起承転結を考え過ぎてウンウン唸って書いていたので、物凄く時間が掛かったような気がする。その内、何とはなしに自分で適当に書き上げられる一回分の原稿量が分かって来た。話の落ちの付け方にも、こじつけだろうが無理繰りだろうが収められるようになった。経験とは恐ろしいもんで、知的作業も体に覚えさせるのが一番と感じる。

かくして、貧乏社長も一丁前なのか半人前なのか分からんが、駄文書きにうつつを抜かせるようになっていたのである。趣味としては、パソコン一台とインターネットの接続さえできれば、世界中、何時でも何処でもすぐにできるもんだからお手軽と言えばそうだろう。

ただ違うのは、自分にとって書き手の生活している定点が海外になってしまったことだ。

記事になる題材は、日本で書いているブロガー達とは視点が自ずと異なってくる。このバンコクの街中とかタイの会社生活とか、身の回りの日常から嗅覚・触覚を鋭くして話題を見つけ出そうとしてきた。そして、見つけた素材からは、周辺の関連する情報をインターネットから出来るだけ発掘するようにした。最後は、それを記事に絡ませながら題材の価値を深く掘り下げようと考えをめぐらせて記事を仕上げる。

この作業はいたって面白いと感じるようになった。
そして、貧乏社長がこのブログを書く時の信条と言うべきものが出来上がったと思う。

それは、表面的な一次情報の安直な紹介だけは絶対にしないことである。つまり、単なる日記の延長線上に止まったブログは、しがないから書かないと決めたのである。日記なら、毎日業務日誌を書いているし、それ以上は蛇足だ。このタイで、上さんと一緒に暮らして生きると言うことが、一体自分の人生で何を与えてくれたのかを、もっと見極めて文章で残しておきたいと思う。

かくして、貧乏社長のブログは、私家版の編集長になった気分で筆を進めてきた感がある。僅かながらでも、日本からタイからコメントを貰えた時は感謝随喜の涙だし、丁寧に返事をお返しをするようにしている。なぜなら、自分の意図した内容に感想とか意見を聞かせて貰えること自体、新しい情報につながる可能性もある。本当にありがたい話なのだ。

すでに、自分は人生の半分以上をもう生きてしまいました。
だから、これからの残りは、もう少し自分の生き方や考えをはっきり大切に残しておきたいと考えました。そのために思索をめぐらす、この意味では、ブログは欠かせない大切な私の人生のツールとなった気がするのです。

ブログを始めて一年が経って、そんな風に考える貧乏社長なのでありました。(この巻き、終わり)

おまけ:この記事を書くにいたったのは、ブロガーの皆さんには色々な人生があるという事です。
シルバー回顧録”さんのホームページには、

HP の更新が 三ヶ月以上途絶えたら
1 : お迎え が来て、急に旅立った。
2 : 悪行の報い で、長患いの床に就いた。
3 : 認知症を発症した 。
以上のいずれかです。

と書いてありました。

2009年6月4日木曜日

毎日、夕方5時のショータイム・イン・カルフール

Dear Gurigurimomonga san,

As your request I translate in to Eng. as below:-
Please ready yourselves both physical & mind
just lift up your hands & walk straight forwardto show everyone that we never lost.
We prompt to work & service
We always reserve you many kind of goods
We never let you down


貧乏社長と上さんは、毎週末、ラーマ四世通りのカルフールに買出しに出かける。

そこで、夕方五時になると、決まってこの歌がスタッフのダンス付きで披露される。軽快なリズムに乗って歌われるせいか、幾度と無く聞く内に覚えてしまって、ハミングできるようになっていた。ただ、タイ語の歌詞もあって、意味までは分からない。知りたくなって、先週の土曜日に出かけた際に、デジカメのレコーダー機能を使って先ず録音してきた。

上さんは、タイ語が貧乏社長より上手なので聞かせてみたが、途中のボリカン(サービス)ぐらいしか聞き取れなかったようだ。”お客さんのためならサービスしまくるよー”とか何とか言っていると、はぐらかされた。

しょうがないな、こうなるとどんな歌詞なのかどうしても知りたくなってくる。ちょっとプライベートとは思いつつも、次の月曜日に出社して、総務課長のアンさんに聞き取りを頼み込んだ。

頼んだは良いが就業時間中に総務課の方から、繰り返しこの曲が再生されて聞こえてくる。ありゃー、イヤホンもつけずPCのスピーカーから生のまんま音を聞いているんだ。社長室まで結構響いてくる。ちょっと、貧乏社長は恥ずかしくなってしまった。後で、何にでも好奇心旺盛で子供みたいに聞いてくる社長とか、変な噂を立てられるんではないかと思って、ビクついてしまう。

結局一時間ほどして、総務課長が聞き取れた歌詞をメールに書いて送ってくれた。端折って書いてきた感じもするのだが、日本語に訳せばこんな内容ではないかと思う。

さあ、みんな、自分自身で体も気分も準備しましょう!
腕を伸ばし、前をしっかり歩いて、お客様にまたお越しいただけるようにお見せしましょう。
自分の仕事や提供するサービスはてきぱきとこなし、
いつも、数多くの商品をそろえて、
決して、お客様をがっかりさせることはありません。

かなり意訳なんだが雰囲気はあっていると思う。これも典型的な企業イメージソングなんだと感じた。同時に演じられるダンスの振り付けもぴったり合っていて、これもビデオに収録したいところなんだが、見つかれば警備員の人に怒られるかも知れない。次回のチャンスを窺がうことにしよう。

さて、日本でもイメージソングや社歌なんかを制定している企業は、数知れない。貧乏社長が長く住んでいた横浜の戸塚には、CGCグループのスーパーがいくつかあって、店頭でCGCのテーマソングがいつも流されていた。
 
あなたも わたしも CGC
つくるひと うるひと たべるひと
たがいにやくだて ありがとうー
たすけーられたり たすけたり
じょうずなかいもの CGC
てかごかたての かおなじみ
やすくて おいしい しなえらびー
しらせーられたり しらせたり (以下略)

ご当地のカルフールも日本のCGCも、国は違えど流通業界で商売している企業だけに、消費者に訴えかけるツボの押さえどころが似通っているのが面白く感じる。このほか、鮮魚コーナーへ回って行くと、決まって”おさかな天国”と言う曲も定番で流されていたのを思い出した。

と言うわけで、タイの企業文化をイメージソングから眺めてみても、日本企業と特段に違いは出ないんだなーと感じた貧乏社長なのでありました。
(この巻き、おわり)

おまけ:因みに、貧乏社長は、CGCグループの旧バージョンソングの方が好きです。